第36話 感覚のズレ|ゼルベの崩れた洞窟で深まるカッパドキアの謎

Barış following a dog through a cave passage toward the light in Zelve, Cappadocia

音が、少し遅れて届いた気がした。

バリシュはゼルベの崩れた洞窟の通路に立っていた。さっきまで確かに聞こえていた観光客の声は、もう遠くに消えていた。風だけが、穴の開いた岩の間を通り抜け、細く、かすれた音を残している。

犬は前にいた。

暗い通路の奥で、立ち止まっていた。

距離はそれほど離れていないはずだった。手を伸ばせば届くほどではない。けれど、走ればすぐ追いつけるくらいの距離。

そう見えた。

でも、足を一歩出した瞬間、その距離の感覚が崩れた。

近いはずなのに、遠い。

遠いはずなのに、目だけは合う。

バリシュは足を止めた。

石の壁に手をつくと、冷たさが指先に遅れて伝わってきた。まるで自分の体まで、この場所の時間に少し置いていかれているようだった。

Hand touching an ancient stone wall in a Cappadocia passage
Some memories remain where words cannot reach.

「……何なんだ、ここは」

声は通路に吸い込まれた。

返ってくるはずの反響が、返ってこない。

いや、少し遅れて、低く戻ってきた。

自分の声なのに、自分ではないように聞こえた。

犬は動かなかった。

ただ、バリシュがその違和感に気づくのを待っているようだった。

壁には、古い削り跡が残っていた。人の手で掘られた部屋。人の手で作られた通路。かつて誰かがここで眠り、火を使い、家族と暮らしていた。

今は何もない。

けれど、何もない場所ほど、残っているものがある。

バリシュは、35話で見た床の線を思い出した。

父のノートに似ている気がした線。

思い過ごしだと言い聞かせた。

でも、思い過ごしなら、なぜ胸に残るのか。

通路の奥で、犬が一歩動いた。

その足音は聞こえなかった。

見えているのに、音がない。

バリシュは息を止めた。

普通なら、爪が石に触れる小さな音がするはずだった。砂が動く音でもいい。何かがあるはずだった。

でも、何も聞こえない。

その代わり、少し遅れて、どこか別の場所から小石の落ちる音がした。

後ろか。

前か。

上か。

分からなかった。

バリシュは振り返った。

誰もいない。

Stone passage inside Derinkuyu Underground City
The path descended into silence.

戻る道は見えている。外の光も、かすかに見える。逃げようと思えば逃げられる。

それなのに、足は動かなかった。

怖いからではない。

怖いだけなら戻れた。

今バリシュを止めているのは、もっと厄介なものだった。

確かめたい。

理解できないまま離れることが、できなくなっていた。

犬はまた少し進んだ。

今度は音がした。

乾いた石を踏む、短い音。

でも、その音は犬の動きよりも先に聞こえた気がした。

バリシュの背中に冷たいものが走った。

順番が、おかしい。

音が先で、動きが後。

記憶が先で、出来事が後。

父のことも、そうだったのかもしれない。

自分は父を知らないのに、父の不在だけはずっと知っていた。

いないという結果だけが先にあり、理由は後から追いかけている。

バリシュは目を閉じた。

ほんの数秒。

暗闇が、まぶたの裏でさらに濃くなる。

目を開けると、犬はさっきより近くにいた。

近づいたのか。

自分が進んだのか。

分からなかった。

バリシュは自分の足元を見た。

靴の位置は変わっていない。

それなのに、犬との距離だけが変わっていた。

「やめてくれ」

思わず言った。

犬は動かなかった。

その目は、責めてもいない。呼んでもいない。

ただ、そこにある。

Barış touching an ancient stone wall in Cappadocia
Some memories remain where words cannot.

バリシュは壁にもたれた。

呼吸が浅くなっていた。

ここで起きていることを、言葉にできない。

距離。

音。

時間。

記憶。

すべてが、少しずつ合わなくなっている。

そして不思議なことに、そのズレはこの場所だけのものではない気がした。

ずっと前から、自分の中にもあった。

父のことを考えるとき。

母の沈黙を思い出すとき。

デニズの怒りに向き合えなかったとき。

自分はいつも、少し遅れて気づいていた。

大切なことに。

痛みに。

誰かの沈黙に。

犬はゆっくりと顔をそらした。

通路の先には、崩れた洞窟の出口があった。光が斜めに差し込み、細かな砂が空中で静かに揺れている。

バリシュはその光を見た。

外へ出られる。

けれど、外へ出ても、この感覚は消えない気がした。

犬は出口の手前で止まった。

Barış facing a dog at the end of an underground passage in Cappadocia
At the edge of light, something familiar was waiting.

そして、初めてはっきりとバリシュの方を見た。

その時だった。

バリシュは気づいた。

この犬を、初めて見た気がしなかった。

ラブバレーで見た犬。

ゼルベで見た犬。

ギョレメで遠くにいた影。

それらはまだ、同じだと断言できない。

でも、胸の奥は先に答えを知っていた。

同じなのかもしれない。そう思った瞬間、犬の影が光の中で長く伸びた。

その影は、ただの犬の影に見えなかった。

誰かが残した道しるべのように、崩れた通路の先へ伸びていた。

バリシュは一歩踏み出した。

今度は、自分の足音がすぐに聞こえた。

それだけで少し安心した。

けれど、安心はすぐに消えた。

犬の姿は出口の光の中にあった。

そしてその立ち方を見た時、バリシュの胸に、次の言葉が静かに浮かんだ。

同じ犬だ。

まだ認めたくはなかった。

でも、もう否定だけでは追いつかなかった。

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