高い場所に立つと、自分の中でごまかしていたものが、急に隠れなくなることがある。
午後の終わりに近い光が、アンカラの街を広く薄く照らしていた。
坂の多いこの街は、下から見上げると建物ばかりが目に入るのに、少し高い場所へ来ると、逆に空の方が大きく見える。乾いた風が、草の少ない地面をなでるたびに、小さな砂の粒が光の中で一瞬だけ浮いた。遠くには白い建物の列、そのさらに向こうに、薄く霞んだ街の輪郭。クズライの人の流れも、ウルスの古い通りも、ハマモニュの静かな石畳も、ここから見れば一つの街の中に入っている。
バリシュは、その開けた場所に一人で立っていた。
どうしてここへ来たのか、順序立てて説明することはできなかった。ハマモニュを出たあと、まっすぐ家へ戻る気にはなれなかった。駅の方へ行くには、まだ心が追いついていない気もした。けれど、平らな道や人の多い通りの中にはもういたくなかった。
それで、足は少しずつ上へ向いた。
昔から、考えがまとまらないときは、理由もなく高い方へ行きたくなることがあった。空が広く見えると、自分の中の狭さが少しだけましになる気がする。
たぶん今日も、そうだった。
ただ、ここへ来て分かったのは、景色が広くなっても心が広くなるわけではないということだった。
風は強くなかった。
押されるほどでもない。
でも、止まっている人間の輪郭だけを静かに確かめるような風だった。
バリシュは、街を見下ろした。
アンカラ。
自分はこの街で生まれて、この街の静けさの中で育った。

政治の街だとか、首都だとか、外からならいくらでも説明できる。けれど自分にとってのアンカラは、もっと別のものだった。
決めきれないものを、長く抱えたまま生きていけてしまう街。
沈黙と理屈が同じ家の中に並んで存在できる街。
人は多いのに、心の中では一人になりやすい街。
だからこそ、自分はここで止まっていたのかもしれなかった。
第14話でクズライに立ったとき、自分だけが普通の流れから外れていると知った。第15話では、戻ったふりではもう生きられないと気づいた。第16話のウルスでは、戻らないと決めることの方が先だと言われた。第17話では、家の前で父の隣にいたかもしれない犬の影を思い出した。第18話のハマモニュでは、誰かに“呼ばれてる顔”をしていると、他人の口から言われた。
それらは全部、ばらばらの出来事だった。
一つずつなら、意味のない偶然だと言い切ることもできたかもしれない。でも、十八話分の時間が重なると、偶然という言葉だけでは足りなくなる。
バリシュは、息を吐いた。
行く理由は、まだ説明できない。
父の地図があったから。
母が何かを隠しているから。
犬の気配がするから。
そんなふうに並べることはできる。だが、どれもしっくりこない。それらは理由の一部にはなっても、全部ではない。
本当に近い言い方をするなら――
ここに、このまま居続ける方が、もう不自然なのだ。

その感覚だけが、今の自分にはいちばん正確だった。
風がまた吹いた。
乾いた草がわずかに揺れ、足元の小さな石がひとつ転がる。
そのとき、少し離れた場所にある低い岩陰に、影が見えた。

ほんの一瞬だった。
人ではない。
腰よりも低い位置。
立っているというより、静かにこちらを見ているような形。
バリシュは、息を止めた。
目を凝らす。
影はもうなかった。ただ、日が傾きはじめたせいで、岩の形が少し長く落ちているだけにも見えた。
気のせいだと言うこともできる。そう思おうとすれば思える程度の曖昧さだった。
けれど、その直後、耳の奥で小さな音がした。
金属が、ほんのわずかに触れ合うような音。
首輪。
そう思ったのは、理屈ではなく先に身体だった。
振り返る。
誰もいない。
風だけが、少し遅れて頬の横を通った。
バリシュの胸の奥で、何かが静かに決まった。
まだ言葉にはなっていない。
けれど、もう否定しきれない。
父の隣にいたかもしれない影。
家の前の記憶。
ハマモニュで横切った低い影。
今ここで聞こえた、首輪のような音。
全部が同じものだと証明することはできない。
でも、全部を別々だと切り離すことも、もうできなかった。
バリシュは、その場にしゃがみ込んだ。
乾いた土に手をつく。
熱は昼の間に少し抜けて、表面だけが冷えていた。
もし誰かに、どうして行くのかと聞かれたら、まだ答えられない。
父のためなのか。
自分のためなのか。
あの犬のためなのか。
それとも、もっと名前のない何かのためなのか。
ただ一つはっきりしているのは、ここで立ち尽くし続けることが、もう選択ではなくなっていることだった。
ここにいれば安全だ。
家もある。
街も知っている。
道にも迷わない。
食卓の位置も、窓から入る光の角度も、全部知っている。
でも、その“知っている”の中に、いちばん知りたいものだけがずっとない。
父は何を見ていたのか。
なぜ地図に行き先を書かなかったのか。
なぜ母は話さないのか。
なぜ自分だけ、ずっと風に背中を触れられている気がするのか。
知らないままここで年を取ることも、たぶんできる。
アンカラはそういう街だ。
足りないものを足りないまま抱えて、理屈と日常で形を整えて生きていける。
けれど、自分はもうそこに戻れない。
その気づきは、決意というより、諦めに近かった。
安全な方の自分を、ようやく諦める感覚だった。
バリシュは立ち上がった。
空は少しだけ色を変え始めている。
夕方に向かう前の、白さと薄い青が混じる時間。
遠くから、車の音が細く上がってくる。
街は相変わらず動いていた。
何も知らない顔で、自分の下に広がっている。

そのとき、背中のすぐ後ろで、風が一度だけ強くなった。
強風ではない。
けれど、これまで何度も感じてきたあの風より、はっきりしていた。
押された、と思う。
ほんの半歩。
それでも確かに、身体が前へ出た。
バリシュは振り返らなかった。
今振り返れば、また何かを確かめたくなる気がした。
影がいるのか。
犬がいるのか。
本当に何かがあるのか。
でも、もうそれを先に確かめなくてもいい気がした。
確かめるために行くのだ。
その順番だけが、ようやく腑に落ちた。
行く理由は、まだ言葉にできない。
でも、ここにいる理由の方が、もう言葉にできなくなっていた。
その違いは、小さいようでいて決定的だった。
バリシュは、アンカラの街をもう一度だけ見た。
この街は、自分を育てた。
沈黙も、迷いも、父の不在も、答えのないまま抱えることも、全部ここで覚えた。
だから、アンカラはただの出発点ではない。
自分がどこまで行っても切り離せない、最初の形そのものだ。
そして今、その最初の形から少しだけずれる時が来ている。
風はもう吹いていなかった。
なのに、背中だけにさっきの感覚が残っている。
バリシュはゆっくりと、丘を下り始めた。

まだ行き先の名前は口にしない。
まだ切符もない。
まだ誰にも言っていない。
それでも、その足取りは第14話のクズライにいたときより、ずっとはっきりしていた。
理由はないのではなかった。
ただ、今の自分にはまだ、説明するだけの言葉が追いついていないだけだった。
丘の途中で、またあの小さな金属音がした。
今度は後ろではなく、風の中に混じるように。
バリシュは止まらなかった。
止まらないことが、初めて答えに近かった。

