昼を少し過ぎたハマモニュは、同じアンカラの中にありながら、ほかの場所より時間の流れが遅かった。石畳の細い道。修復された古い家々の木の窓枠。軒先に下がる小さな鉢植え。どこかの店から煮出したチャイの匂いが漂い、乾いた空気の中に木と土のやわらかい匂いが混じっていた。遠くで車の音はしているのに、この一角まで来ると、それはもう別の街の音のように薄くなる。
バリシュは、坂の途中で足を止めた。
自分でも、どうしてここまで来たのかを正確には説明できなかった。
家の前を離れたあと、まっすぐ駅の方へ向かう気にはなれなかった。
かといって、また家の中へ戻ることもできなかった。
それで歩いた。
クズライでは人が多すぎた。
ウルスでは過去の匂いが近すぎた。
そのどちらでもない場所を求めるうちに、足はハマモニュへ向いていた。

ここなら少しは考えられる気がした。
静かで、古くて、誰にも急かされない。
アンカラの中でも、まだ呼吸をゆっくりしている場所。
理屈で物事を整理したいとき、人はこういう場所へ来るのかもしれない、とバリシュは思った。
けれど、いざ来てみると、静けさは落ち着きをくれなかった。
むしろ逆だった。
石畳を踏む靴音だけが自分のものとしてはっきり聞こえる。
窓辺に置かれた古い椅子。
日陰に寄せられた木箱。
観光客の笑い声さえ、少し遅れて耳に届く。
何も乱れていない。
何も壊れていない。
それなのに、自分の内側だけが噛み合っていないようだった。

17話の家の前で思い出しかけた犬の影が、まだ胸の奥に残っていた。
父の隣。
門の低い位置。
気のせいかもしれない気配。
思い出せないのに、消えない。
それが気持ち悪かった。
ハマモニュの奥へ進むと、小さな広場のように少しだけ開けた場所があった。古い木のベンチが一つ、影の中に置かれている。陽の当たる石畳は白く明るいのに、そのベンチのまわりだけは温度が少し低いように見えた。バリシュはそこに座った。

風は弱かった。
聞こえるのは、遠くの食器の触れ合う音と、鳥の短い鳴き声だけだった。
こんな場所なら、落ち着くはずだった。
なのに、胸のざわつきは薄くならない。
むしろ静けさの分だけ、はっきりしていく。
――このままここにいてもだめだ。
その感覚だけが、理由より先にあった。
何がだめなのかは分からない。
何を探しに行くのかも、まだ言葉にならない。
でも、ここに座っていても、家に戻っても、同じところを回り続けるだけだという予感があった。
そのとき、すぐ横で杖の先が石に当たる小さな音がした。
気づかなかった。
いつの間にか、ベンチの反対側に老人が立っていた。

ウルスで会った老人とは別人だった。
こちらの男はもう少し痩せていて、濃い紺色の上着を着ていた。帽子の影で目元は少し見えにくいが、立ち方には不思議な静けさがあった。呼びかけるでもなく、見張るでもなく、ただそこにいることが自然な人だった。
「座っても?」
低い声だった。
バリシュは少しだけ身をずらした。
「どうぞ」
老人はゆっくり腰を下ろした。
それ以上すぐには話さない。
二人のあいだに、ハマモニュの午後の静けさがそのまま落ちた。
やがて、老人が前を向いたまま言った。
「落ち着きたい顔で来たのに、余計に落ち着かなくなったな」
バリシュは思わず顔を向けた。
「そんなふうに見えますか」
「見える」
老人は短く言った。
「それに、お前」
そこで少しだけ言葉を切ってから、静かに続けた。
「誰かに“呼ばれてる顔”をしてるな」
その一言で、バリシュの中の何かが止まった。
呼ばれている。
その言い方は、あまりにも正確すぎた。
自分でも言葉にできなかった違和感を、他人が先に口にした気がした。
「……そんな顔、してますか」
老人は笑わなかった。
「してる。行き先が分かってる顔じゃない。だが、戻る顔でもない」
その言葉は、まるで第14話から17話までの自分を、そのまま見抜いたようだった。
クズライで立ち止まり、バス停で迷い、ウルスで駅の方角だけを見て、家の前で犬の影を思い出した。
全部がばらばらだったはずなのに、この老人の一言で急に一本の線に見えた。
「呼ばれてるって、何に」
バリシュは低く聞いた。
老人はしばらく答えなかった。
前の石畳を、午後の光が少しずつずれていく。
「それを先に言葉にしたら、たぶん違うものになる」
その言い方に、バリシュは母エミネを思い出した。
言葉にすると形が変わる。
この家の人たちは、なぜみんな同じような話し方をするのだろうと思った。
だが、老人の次の言葉は母とは少し違っていた。
「ただ、お前はまだ“理由”を探してる。だから落ち着かない」
バリシュは視線を落とした。
石畳の割れ目に、細い草が一本だけ伸びている。
理由。
たしかにそうだった。
父のことを追う理由。
家を出る理由。
駅へ向かう理由。
犬の影を気にする理由。
全部に説明をつけようとしていた。
けれど説明が追いつかないから、何も決められずにいる。
「理由がないと、進んじゃだめですか」
気づけば、そんなことを聞いていた。
老人は今度は少しだけ笑った。
「だめとは言わん」
それから、ベンチの前の空気を見つめるようにして言った。
「だが、人は理由がないと不安になる。
不安になると、正しい場所にいても落ち着けなくなる」
その言葉が、ハマモニュそのものの説明に聞こえた。
ここは静かな場所だ。
考えるには向いている。
なのに自分は落ち着かない。
それは場所が悪いのではなく、自分の中でまだ何も定まっていないからだ。
そして、その定まらなさの中心には、父と、家と、犬の影がある。
風が、ほとんど音もなく通った。
その瞬間、広場の端にある木の影がわずかに揺れる。
バリシュは無意識にそちらを見た。
何かがいた気がした。
犬のような低い影。
ほんの一瞬。
だが、目を凝らしたときには、そこには誰もいなかった。

観光客の靴が一足、角を曲がって消えただけだった。
「……まただ」
小さく漏れる。
老人がこちらを見る。
「何が」
「分からない。でも……」
そこで言葉が止まる。
犬だと言い切るには曖昧すぎる。
気のせいだと言い切るには、もう回数が多すぎる。
老人はそれ以上聞かなかった。
ただ、バリシュの顔を一度だけ見て、前へ視線を戻した。
「お前、ここに長くいない方がいい」
「どうして」
「静かな場所は、考えるにはいい。
だが、決める前の人間には深すぎることがある」
その言葉は不思議と脅しには聞こえなかった。
むしろ、今の自分に必要な線引きのように感じられた。
ハマモニュは考える場所だった。
でも答えをくれる場所ではない。
ここで整理はできる。
けれど、ここに留まっている限り、何も始まらない。
バリシュはゆっくり立ち上がった。
膝の裏に、ベンチの木の冷たさが少しだけ残る。
「……ありがとう」
老人は頷きもしなかった。
ただ、午後の光の方を見たまま言った。
「礼を言うほどのことじゃない。
呼ばれてる顔の人間は、たいてい自分で歩く」
その一言が、胸に残った。
バリシュは広場を出る前に、もう一度だけ振り返る。
老人は動いていなかった。
石と木と影のあいだに、最初からそこにいたもののように座っている。
その姿を見たとき、ハマモニュの静けさの意味が少しだけ分かった気がした。
ここは落ち着くための場所ではなく、落ち着けなさをはっきりさせる場所なのだ。
アンカラは、そういう街なのかもしれない。
人が多く、建物が多く、生活がきちんと並んでいる。
理屈で整理できそうな顔をしているのに、いちばん深いところでは、人を自分の内側へ押し戻してくる。
クズライでは、自分だけが止まっていると知った。
ウルスでは、戻らないことが先だと知った。
家の前では、思い出せない犬の影が残った。
そしてハマモニュで、ようやく分かった。
自分は落ち着かないのではない。
落ち着いてしまったら、もう行けなくなるとどこかで知っているのだ。
通りへ出ると、午後の光は少しだけ傾き始めていた。
どこへ向かうかは、まだ決めていない。
けれど、同じ場所に留まり続けることだけは、もうできない気がした。
そのとき、背後のどこかで、首輪の金具が小さく触れ合うような音がした。
振り返る。
誰もいない。
ただ、石畳の上に、細い影がひとつ横切ったように見えた。
気のせいかもしれない。
でも今はもう、それで済ませるには胸の奥が静かすぎた。

