第34話 目が合う瞬間|カッパドキア・ラブバレーで犬の謎が近づく

Barış facing a mysterious Kangal dog in Love Valley, Cappadocia

目が合う前から、見られている気がしていた。

バリシュはラブバレーの開けた場所に立っていた。奇岩の間を抜けた先で、谷は急に広くなった。空が大きく開き、白い岩肌が朝の光を受けて淡く輝いている。

けれど、胸の中は少しも広がらなかった。

昨日、犬は逃げなかった。

そして今日も、逃げなかった。

それどころか、まるでバリシュが来る場所を先に知っていたかのように、谷の中心に立っていた。

風が乾いた草を揺らす。足元の砂が、靴の縁にまとわりつく。遠くで鳥が鳴いたが、その声さえ谷の中では薄く聞こえた。

バリシュは一歩だけ進んだ。

犬は動かない。

もう一歩。

まだ動かない。

昨日までの不安は、少し形を変えていた。

怖い。

でも、逃げたいだけではない。

知りたい。

なぜこの犬は、自分の前にだけ現れるのか。なぜ逃げないのか。なぜ父のことを考えるたび、必ずこの影が近くなるのか。

バリシュは息を整えた。

その時、犬がゆっくり顔を上げた。

そして、目が合った。

Barış facing the mysterious dog in Love Valley, Cappadocia
A silent gaze across the valley.

ほんの一瞬だった。

けれど、その一瞬で、谷の音が遠のいた。

風も、鳥の声も、観光客の足音も消えたように感じた。

犬の目は、鋭くなかった。

優しくもなかった。

ただ、静かだった。

何かを責める目ではない。

何かを求める目でもない。

ただ、バリシュの奥にあるものを、黙って見ているようだった。

バリシュは動けなかった。

見られているのは顔ではない。

旅を始めた理由でもない。

もっと深い場所だった。

父の名前を聞くたびに固くなる胸。

母の沈黙を思い出すたびに残る苦さ。

デニズの怒りから目をそらした自分。

全部、そこに置かれているような気がした。

「やめろ」

声にならない声が喉の奥で止まった。

犬は何もしていない。

近づいてもいない。

吠えてもいない。

ただ見ているだけだった。

それなのに、バリシュは耐えられなかった。

人は、言葉で責められるより、沈黙で見つめられる方が苦しいことがある。

その目の中には、答えがなかった。

でも、逃げ道もなかった。

バリシュは視線をそらした。

岩の白さが目に刺さる。

baris-noah-unspoken-decision-love-valley.jpg
Some journeys begin in silence.

手のひらに汗がにじんでいた。

自分は何を恐れているのだろう。

犬か。

父か。

それとも、父を探すと言いながら、本当は何も知りたくない自分か。

風が少し強くなった。

砂が低く流れ、犬の足元を薄く包んだ。

その時、犬が一歩だけ近づいた。

バリシュは身を固くした。

でも犬はそこで止まった。

近づきすぎない。

遠ざかりもしない。

まるで、バリシュが壊れない距離を知っているようだった。

その距離が、逆に胸に残った。

恐怖だけではない。

そこには不思議な静けさがあった。

バリシュはもう一度、犬を見た。

Barış and Noah facing each other in Love Valley, Cappadocia
Neither moved. The silence spoke first.

目が合う。

今度はそらさなかった。

ほんの数秒。

それだけで十分だった。

バリシュの中で、何かが小さく動いた。

この犬は、自分を追い詰めているのではない。

でも、慰めているわけでもない。

ただ、自分が見ないようにしてきたものの前に、静かに立っている。

そのことが分かった瞬間、足元の地面が少し違って見えた。

ラブバレーの白い岩。

乾いた風。

細く伸びる影。

すべてが、ただの景色ではなくなっていた。

A winding path through a quiet valley in Cappadocia
The road disappears for a moment, inviting the next step.

バリシュは小さく息を吐いた。

「お前は……何を見ているんだ」

犬は答えない。

けれど、その沈黙は、昨日より近かった。

犬はゆっくりと顔をそらし、谷の奥へ目を向けた。

そこには、ゼルベへ続く方角があった。

崩れた洞窟。

古い暮らしの跡。

人が去ったあとも残る空間。

バリシュはその方角を見た。

なぜか、胸の奥がざわついた。

犬はもう一度だけ、バリシュを見た。

その目は、問いかけているようでもあり、何も言っていないようでもあった。

次の瞬間、犬はゆっくり歩き出した。

逃げる速さではなかった。

誘う速さでもなかった。

ただ、バリシュが追えるだけの速度だった。

バリシュは立ち尽くした。

Noah looking back toward Barış on a quiet path in Cappadocia
As if asking, “Are you coming?”

行くべきではない。

そう思った。

でも、行かなければ、この目が何を見ていたのか分からない。

谷の風が背中を押した。

バリシュは一歩、犬のあとへ踏み出した。

その一歩は、昨日より重かった。

そして、昨日よりも戻れない一歩だった。

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