目が合う前から、見られている気がしていた。
バリシュはラブバレーの開けた場所に立っていた。奇岩の間を抜けた先で、谷は急に広くなった。空が大きく開き、白い岩肌が朝の光を受けて淡く輝いている。
けれど、胸の中は少しも広がらなかった。
昨日、犬は逃げなかった。
そして今日も、逃げなかった。
それどころか、まるでバリシュが来る場所を先に知っていたかのように、谷の中心に立っていた。
風が乾いた草を揺らす。足元の砂が、靴の縁にまとわりつく。遠くで鳥が鳴いたが、その声さえ谷の中では薄く聞こえた。
バリシュは一歩だけ進んだ。
犬は動かない。
もう一歩。
まだ動かない。
昨日までの不安は、少し形を変えていた。
怖い。
でも、逃げたいだけではない。
知りたい。
なぜこの犬は、自分の前にだけ現れるのか。なぜ逃げないのか。なぜ父のことを考えるたび、必ずこの影が近くなるのか。
バリシュは息を整えた。
その時、犬がゆっくり顔を上げた。
そして、目が合った。

ほんの一瞬だった。
けれど、その一瞬で、谷の音が遠のいた。
風も、鳥の声も、観光客の足音も消えたように感じた。
犬の目は、鋭くなかった。
優しくもなかった。
ただ、静かだった。
何かを責める目ではない。
何かを求める目でもない。
ただ、バリシュの奥にあるものを、黙って見ているようだった。
バリシュは動けなかった。
見られているのは顔ではない。
旅を始めた理由でもない。
もっと深い場所だった。
父の名前を聞くたびに固くなる胸。
母の沈黙を思い出すたびに残る苦さ。
デニズの怒りから目をそらした自分。
全部、そこに置かれているような気がした。
「やめろ」
声にならない声が喉の奥で止まった。
犬は何もしていない。
近づいてもいない。
吠えてもいない。
ただ見ているだけだった。
それなのに、バリシュは耐えられなかった。
人は、言葉で責められるより、沈黙で見つめられる方が苦しいことがある。
その目の中には、答えがなかった。
でも、逃げ道もなかった。
バリシュは視線をそらした。
岩の白さが目に刺さる。

手のひらに汗がにじんでいた。
自分は何を恐れているのだろう。
犬か。
父か。
それとも、父を探すと言いながら、本当は何も知りたくない自分か。
風が少し強くなった。
砂が低く流れ、犬の足元を薄く包んだ。
その時、犬が一歩だけ近づいた。
バリシュは身を固くした。
でも犬はそこで止まった。
近づきすぎない。
遠ざかりもしない。
まるで、バリシュが壊れない距離を知っているようだった。
その距離が、逆に胸に残った。
恐怖だけではない。
そこには不思議な静けさがあった。
バリシュはもう一度、犬を見た。

目が合う。
今度はそらさなかった。
ほんの数秒。
それだけで十分だった。
バリシュの中で、何かが小さく動いた。
この犬は、自分を追い詰めているのではない。
でも、慰めているわけでもない。
ただ、自分が見ないようにしてきたものの前に、静かに立っている。
そのことが分かった瞬間、足元の地面が少し違って見えた。
ラブバレーの白い岩。
乾いた風。
細く伸びる影。
すべてが、ただの景色ではなくなっていた。

バリシュは小さく息を吐いた。
「お前は……何を見ているんだ」
犬は答えない。
けれど、その沈黙は、昨日より近かった。
犬はゆっくりと顔をそらし、谷の奥へ目を向けた。
そこには、ゼルベへ続く方角があった。
崩れた洞窟。
古い暮らしの跡。
人が去ったあとも残る空間。
バリシュはその方角を見た。
なぜか、胸の奥がざわついた。
犬はもう一度だけ、バリシュを見た。
その目は、問いかけているようでもあり、何も言っていないようでもあった。
次の瞬間、犬はゆっくり歩き出した。
逃げる速さではなかった。
誘う速さでもなかった。
ただ、バリシュが追えるだけの速度だった。
バリシュは立ち尽くした。

行くべきではない。
そう思った。
でも、行かなければ、この目が何を見ていたのか分からない。
谷の風が背中を押した。
バリシュは一歩、犬のあとへ踏み出した。
その一歩は、昨日より重かった。
そして、昨日よりも戻れない一歩だった。

