朝の光は、ギョレメの岩肌を静かに白くしていた。
昨日の夜、バリシュは何度も自分に言い聞かせた。
気のせいだ。
疲れていただけだ。
知らない土地に来て、見慣れない景色に心が勝手に反応しているだけだ。
そう思おうとすればするほど、胸の奥に残った違和感は消えなかった。
宿の小さなテラスには、まだ人の声が少なかった。遠くでカップの触れる音がして、どこかの部屋の窓が軋む。焼きたてのパンの匂いが、冷たい朝の空気に混じっていた。
カッパドキアの朝は、アンカラの朝とは違った。
アンカラの朝は、街がゆっくり目を覚ます音がする。
ここでは、土地そのものが先に目を覚ましている気がした。
バリシュは薄い上着を羽織り、宿を出た。
今日はラブバレーへ行くつもりだった。

名前だけ聞けば、少し軽い場所のように思える。けれど、写真で見たその谷は、どこか人間の言葉を拒むような形をしていた。柔らかい名前とは反対に、岩は沈黙していた。
道を歩くと、足元の土が乾いた音を立てた。
小さな石が靴の裏で転がる。
遠くには、細長い岩の柱がいくつも立っていた。誰かが作ったのではなく、時間そのものがそこに残したもののようだった。
風が吹くたび、砂の匂いがした。
湿った匂いではない。
乾いていて、古くて、どこか記憶に似た匂いだった。
バリシュは立ち止まり、谷の入口を見た。

観光客の声は遠くにある。近くにいるはずなのに、なぜか現実から少し離れて聞こえた。
「……今日は何も起きない」
小さくそう言った。
言葉にすれば、心が落ち着くと思った。
でも、その言葉はすぐ風に流された。
谷へ入る道は、思ったより狭かった。
左右の岩が少しずつ近づいてくる。空は広いのに、足元だけがどこか閉じていくようだった。

バリシュは歩いた。
昨日までの違和感を確かめるためではない。
むしろ、それを終わらせるためだった。
一度、自分の目で普通の景色を見ればいい。
犬などいなかった。
影も、視線も、足音も、すべて自分の中で大きくなっただけだった。
そう思える場所を探していた。
しばらく歩いたところで、谷が少し開けた。
岩の間から光が差し、地面に長い影を落としている。
その影の先に、何かがいた。
バリシュの足が止まった。
遠かった。
それでも、見間違える距離ではなかった。
一匹の犬が、谷の奥に立っていた。
大きな体。
静かな姿勢。
こちらに向いているようで、向いていないようにも見える。
昨日見た犬と同じかどうか、すぐには分からなかった。
けれど、分からないことが、かえって怖かった。
バリシュは息を浅くした。
犬は動かなかった。
吠えもしない。
近づきもしない。
ただ、そこにいた。
まるで、バリシュが来ることを知っていたように。
「……違う」
バリシュは自分に言った。
昨日の犬とは違う。
この土地には犬くらいいる。
村にも、谷にも、道にも。
そんなことは普通だ。
そう考えれば考えるほど、目の前の光景は普通から離れていった。
なぜなら、その犬は驚いていなかったからだ。
人間を見て警戒する様子もない。
餌を求める様子もない。
ただ、待っていた。
待つという言葉が頭に浮かんだ瞬間、バリシュはそれを打ち消した。
犬が人を待つわけがない。
まして、自分を。
その時、背後から小さな足音がした。
振り返ると、年配の男が杖をついてゆっくり歩いてきた。地元の人だろう。帽子を深くかぶり、顔には朝の光よりも古い影があった。
男はバリシュの横で立ち止まり、谷の奥を見た。

「道を間違えたのか?」
トルコ語は柔らかかったが、声には乾いた響きがあった。
「いいえ。ただ、少し見ていただけです」
バリシュはそう答えた。
男はうなずき、同じ方向を見つめた。
「ここは、見すぎると、見なくていいものまで見る」
バリシュは男の横顔を見た。
「どういう意味ですか?」
男は笑わなかった。
ただ、杖の先で乾いた土を軽く叩いた。
「この谷は、人が置いていったものをよく覚えている」
それだけ言うと、男はまた歩き始めた。
バリシュは言葉を返せなかった。
置いていったもの。
その言葉が、妙に胸の奥に引っかかった。
父も、何かを置いていったのだろうか。
それとも、自分が何かを置いてきたのだろうか。
男の背中が遠ざかっていく。
バリシュはもう一度、谷の奥を見た。

犬はまだいた。
さっきと同じ場所に。
同じ姿勢で。
それが、いちばんおかしかった。
普通なら、少しは動く。
風に反応する。
人の声に反応する。
でも、その犬はまるで時間から外れているように見えた。
バリシュは一歩だけ前に出た。
足元の石が音を立てた。
その音が谷の中で小さく跳ね返る。
犬の耳が、わずかに動いた。
それだけだった。
バリシュの胸が強く鳴った。
怖いのか。
それとも、確かめたいのか。
自分でも分からなかった。
ただ、昨日までの「気のせい」は、もう使えない気がした。
気のせいなら、同じものは二度現れない。
気のせいなら、こんなふうに待ってはいない。
バリシュは唇を結んだ。
近づくべきではない。
理性はそう言っていた。
けれど、足は完全には戻ろうとしなかった。
風が谷を抜けた。
岩の影が少しだけ揺れた。
その瞬間、犬の輪郭も揺れたように見えた。
消える、と思った。
けれど、消えなかった。
そこにいる。
また、いる。
バリシュは目をそらせなかった。
そして初めて、心のどこかで認めた。
これは偶然ではない。
その時、犬がゆっくりと顔を上げた。
遠すぎるはずなのに、目が合った気がした。
バリシュの背中に、冷たいものが走った。
犬は吠えなかった。
近づいてもこなかった。
ただ、まるで何かを知っているように、静かに立っていた。
バリシュは一歩も動けなかった。
風の中で、さっきの老人の言葉だけが残っていた。
この谷は、人が置いていったものをよく覚えている。
バリシュは小さく息を吸った。
自分は何を見ているのだろう。
犬なのか。
影なのか。
それとも、父が残した何かなのか。
答えはなかった。
ただ、谷の奥で、その犬だけが動かずにいた。
まるで次にバリシュが歩く道を、先に知っているように。

