第30話 ギョレメの宿のテラス|これは気のせいなのか

Barış studying a map over breakfast in Göreme, Cappadocia

朝になると、夜に見たものは少し弱くなる。

バリシュは、宿のテラスに座っていた。

目の前には、ギョレメの町が静かに広がっている。

朝の光は岩肌を明るく照らし、昨夜あれほど重く見えた丘も、今はただの乾いた斜面に見えた。

チャイの湯気が、細く立ちのぼっている。

宿の台所からはパンを温める匂いが流れ、遠くで誰かが車のドアを閉める音がした。

すべてが普通だった。

だからこそ、バリシュは少し安心した。

昨夜の外灯の下の影も、丘で聞いた足音も、一本だけ揺れていた草も、夜が作ったものだったのかもしれない。

疲れていた。

知らない土地に来た。

父の地図のことを考えすぎていた。

理由なら、いくつもあった。

バリシュはそうやって、自分の中に説明を並べた。

けれど、説明を並べるほど、心の奥は静かにならなかった。

テーブルの上には、父の地図が置かれていた。

Barış studying a map over breakfast in Göreme, Cappadocia
The morning was quiet, but the map offered no answers.

開くつもりはなかった。

でも、気づけばまた広げていた。

行き先の名が書かれていない線。

ネヴシェヒルの近くの小さな印。

何度も折られた跡。

昨日まで、その印はただの古い鉛筆の跡だった。

でも今は違う。

バリシュには、それが場所ではなく、問いのように見えた。

なぜここなのか。

なぜ自分なのか。

なぜ、あの犬のような影は消えたり現れたりするのか。

彼は地図を閉じた。

もうやめよう。

そう思った。

今日は町を普通に歩く。

観光客のように写真を撮る。

店先の絨毯を眺め、陶器の皿を見て、チャイを飲む。

昨日までのことは、少し距離を置けば薄くなる。

そう決めたはずだった。

「よく眠れましたか」

宿の若い男が、皿を持って近づいてきた。

白いチーズ、オリーブ、トマト、きゅうり。

いつもの朝食だった。

「少しだけ」

バリシュは答えた。

男は笑って、テーブルの端に皿を置いた。

「このあたりは、夜に音が響くでしょう。初めて来る人は、眠れないことがあります」

バリシュは顔を上げた。

「音?」

「犬の声とか、風とか。岩が多いから、変なふうに聞こえるんです」

それは、自然な説明だった。

自然すぎて、バリシュは少し救われた気がした。

「そうですね。多分、それです」

口に出してみると、少し楽になった。

多分、それだ。

風。

反響。

夜。

疲れ。

説明できる。

説明できるなら、怖くない。

そう思いたかった。

朝食を終えると、バリシュはテラスの端へ歩いた。

町の細い道には、もう人が増えはじめている。

観光客がカメラを持って歩き、店の前では男が絨毯の埃を払っていた。

ギョレメは、確かに現実の町だった。

Traditional cave houses in Göreme on a quiet morning
The town looked completely ordinary in the morning light.

不思議な形の岩も、穴の空いた住居跡も、影の濃い小道も、すべて現実の中にある。

それを自分が勝手に特別なものにしていただけなのかもしれない。

バリシュは深く息を吸った。

その時、テラスの下で犬が吠えた。

一度だけ。

短く、低く。

バリシュの体が、先に反応した。

彼はすぐに手すりから身を乗り出した。

宿の前の道には、二人の観光客が歩いているだけだった。

Barış looking over a quiet street in Göreme, Cappadocia
The road below seemed ordinary, yet something felt different.

犬はいない。

少し離れた曲がり角にも、何もいない。

バリシュは息を吐いた。

ただの犬だ。

そう思った。

どこか別の道にいるのだろう。

声だけが岩に反響して、近くに聞こえただけかもしれない。

それなら説明できる。

けれど、手すりを握る指には力が入っていた。

「大丈夫ですか」

若い男が声をかけた。

バリシュは振り向いた。

「犬の声がしたので」

「ああ、いますよ。この町にはたくさん」

男は軽く笑った。

「でも、今は見えませんね」

その何気ない一言が、バリシュの胸に小さく刺さった。

今は見えない。

見えないだけ。

そう聞こえた。

バリシュは、もう一度道を見下ろした。

何もない。

誰もいない。

ただ、朝の光が石畳を照らしている。

それでも、曲がり角の先に何かが残っている気がした。

彼はゆっくり席に戻った。

チャイは冷めかけていた。

表面に薄い膜のような光が揺れている。

バリシュはカップを持ち上げようとして、手を止めた。

テーブルの端に、小さな土の跡があった。

A hand pausing above a small mark on a wooden table in Cappadocia
Some traces appear only when we stop and look closely.

乾いた土。

誰かの靴についたものかもしれない。

風で飛んできたものかもしれない。

宿のテラスなのだから、不思議ではない。

でも、その土の跡は、丸く、浅く、どこか足跡のようにも見えた。

小さすぎる。

はっきりしない。

すぐに崩れそうな形。

バリシュは指で触れようとして、やめた。

まただ。

何でもないものに意味を見ている。

そう思った。

でも、そう思う自分の声が、少しだけ弱かった。

彼は地図を畳み、ポケットに入れた。

今日はもう追わない。

考えない。

確かめない。

そう決めて、宿を出た。

ギョレメの通りは、朝の光の中で明るかった。

店先のランプはまだ灯っていない。

陶器の皿には青と赤の模様が並び、絨毯は風を含んでゆっくり揺れている。

道端のチャイ屋では、男たちが小さなグラスを片手に話していた。

笑い声が上がる。

パンを運ぶ少年が坂を下っていく。

この町は、普通に生きている。

バリシュはそう思った。

そして、自分もその普通の中に戻れるはずだと思った。

けれど、一本奥の道に目が向いた。

28話で立ち止まった分かれ道へ続く方角。

29話で丘から見下ろした暗がりの方角。

行くつもりはなかった。

ただ、視線がそこへ向いただけだった。

その時、細い路地の奥で、黒とも茶色とも言えない低い形が一瞬だけ動いた。

Barış looking toward a narrow alley in Göreme, Cappadocia
Some paths reveal themselves only when we pause.

バリシュは足を止めた。

人影ではない。

大きな石でもない。

犬と言い切るには短すぎる。

ほんの一瞬。

見えたと思った時には、もう消えていた。

バリシュはしばらく動かなかった。

通りを歩く人たちは、誰も足を止めない。

誰も振り向かない。

誰も、その路地を見ない。

世界は普通のまま進んでいる。

それが、いちばん不自然だった。

バリシュは、ゆっくり目を閉じた。

気のせいだ。

そう言った。

今度は声に出していた。

近くを通った老人が、少しだけ彼を見た。

けれど、何も言わずに歩いていった。

バリシュは目を開けた。

路地の奥には何もない。

ただ、石畳の上に細い影が伸びているだけだった。

それでも、バリシュの中ではもう何かが変わっていた。

気のせい。

その言葉は、否定ではなくなっていた。

むしろ、自分を守るための最後の薄い布のようだった。

その布の向こう側で、何かが静かに動いている。

バリシュは、路地には入らなかった。

代わりに、町の広い道へ出た。

人の声のある方へ歩いた。

それは逃げることに近かった。

でも、完全な逃げではなかった。

彼は何度も振り返った。

一度。

二度。

三度。

三度目に振り返った時、路地の入口に何かがあった。

犬ではなかった。

影でもなかった。

そこには、ただ一枚の小さな紙切れが落ちていた。

バリシュは足を止めた。

紙は、風に動かされることなく、石畳の上に貼りついたように静かにあった。

近づくべきか迷った。

そして、近づいた。

拾い上げると、それは古い紙ではなかった。

観光客が落としたレシートの切れ端のようだった。

そこには、店の名前と、かすれた印字が残っているだけだった。

意味などない。

そう思った。

けれど、紙の裏側に、鉛筆で細い線が一本引かれていた。

A worn paper marked with a single line in a quiet Cappadocia street
The mark was simple, yet it was impossible to ignore.

ただの落書きかもしれない。

子どもが描いたものかもしれない。

でも、その線は、父の地図にあった名前のない線と、なぜか似ていた。

バリシュの指が止まった。

朝の光が、石畳の上に静かに落ちている。

遠くで犬が、もう一度だけ吠えた。

今度は、ずっと遠くからだった。

バリシュは、紙切れを握ったまま、動けなかった。

気のせいだ。

もう一度そう言おうとした。

けれど、声は出なかった。

Barış studying a map over breakfast in Göreme, Cappadocia

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