第32話 距離が変わらない犬|ラブバレーで深まるカッパドキアの違和感

Barış watches a distant dog on a quiet path in Love Valley, Cappadocia
A quiet rocky valley in Cappadocia beneath a cloudy sky
The landscape revealed nothing, yet it seemed to remember.

距離は、歩けば変わるはずだった。

バリシュはそう思いながら、乾いた道の上に立っていた。

ラブバレーの朝は、昨日より少しだけ白かった。岩の柱の輪郭が光に溶け、遠くの谷はまだ眠っているように静かだった。風が吹くたび、細かな砂が靴の縁に当たり、小さな音を立てた。

昨日、あの犬は確かにいた。

そして今日も、いた。

バリシュはそれを認めたくなかった。

同じ谷に犬がいることは、おかしくない。カッパドキアの村には犬がいる。道にも、丘にも、店の前にもいる。人の生活のそばに、当たり前のようにいる。

でも、あの犬は違った。

人の生活から少し外れた場所に、まるで誰にも属していないように立っていた。

谷の奥へ続く一本道。

その先に、昨日と同じ影があった。

A man watching a distant figure on a quiet path in Cappadocia
Some distances cannot be measured by steps.

バリシュはゆっくり歩き始めた。

一歩。

乾いた土が鳴る。

二歩。

風が頬をかすめる。

三歩。

犬は動かない。

距離は縮まっているはずだった。

なのに、目に映る犬の大きさは変わらなかった。

バリシュは立ち止まった。

目を細める。

遠近感がおかしいのだろうか。

谷の地形のせいかもしれない。ラブバレーの岩は、近いものを遠く見せ、遠いものを近く見せる。光と影が重なると、距離の感覚が曖昧になる。

そう考えれば、説明はつく。

説明は、つくはずだった。

バリシュはもう一度歩いた。

さっきより少し速く。

足元の石が転がり、乾いた音が谷に跳ね返る。朝の空気は冷たいのに、背中の内側だけがじんわり熱くなっていった。

犬は、まだ同じ場所にいるように見えた。

いや、同じ距離にいるように見えた。

それが怖かった。

遠くにいるのではない。

近づけないのだ。

バリシュは息を吸った。

「そんなはずない」

声に出してみた。

けれど、その声は谷の中で薄くなり、自分のものではないように戻ってきた。

その時、右側の岩の陰から、若い女性の笑い声が聞こえた。観光客だろう。二人組が写真を撮りながら歩いていた。赤いスカーフが風に揺れている。

一人が犬の方を見た。

バリシュは思わず、その視線を追った。

見えているのか。

彼女たちにも、あの犬が見えているのか。

だが、女性はすぐにスマートフォンを構え、岩の柱を背景に笑った。

A traveler notices a distant dog while tourists pass through Cappadocia
Some things are visible only to those who are looking.

犬には何の反応も示さなかった。

バリシュの喉が少し乾いた。

見えていないのか。

それとも、見えていても気にしていないだけなのか。

その違いが、分からなかった。

彼は道の端に寄り、二人が通り過ぎるのを待った。

香水の匂いが一瞬だけ風に混じり、すぐ消えた。人の気配が遠ざかると、谷はまた元の静けさに戻った。

バリシュはもう一度、犬を見た。

そこにいる。

同じ姿勢で。

同じ距離で。

胸の奥に、小さな苛立ちが生まれた。

怖いというより、理解できないことへの苛立ちだった。

人は、分からないものに名前をつけたがる。

偶然。

疲れ。

錯覚。

旅先の不安。

そう呼べば、心は少し落ち着く。

けれど、名前をつけても消えないものがある。

父のこともそうだった。

失踪。

沈黙。

選択。

どの言葉を使っても、父がいないという事実だけは変わらなかった。

そして今、目の前の犬にも、どの言葉も合わなかった。

バリシュは小さく首を振った。

父を思い出す必要はない。

今は犬のことだけを考えればいい。

そう思った瞬間、昨日の老人の言葉が戻ってきた。

A solitary figure standing on a quiet path between rock formations in Cappadocia
A moment of stillness before the next step.

この谷は、人が置いていったものをよく覚えている。

置いていったもの。

父が置いていったもの。

自分が置いてきたもの。

言葉が、谷の空気に混じって消えない。

バリシュは歩くのをやめた。

今度は逆に、後ろへ一歩下がってみた。

犬との距離を広げるためだった。

一歩。

犬は変わらない。

もう一歩。

変わらない。

三歩下がっても、犬の輪郭は同じだった。

バリシュの指先が冷たくなった。

近づいても遠ざかっても、距離が変わらない。

A traveler watching a distant dog on a quiet path in Cappadocia
The closer he moved, the farther it seemed.

そんなことはありえない。

ありえないのに、目の前ではそう見えている。

彼は目を閉じた。

数秒だけ。

風の音。

遠くの鳥の声。

どこかで小石が落ちる音。

目を開けた。

犬は、少しだけ顔の向きを変えていた。

こちらを見ていた。

はっきりと。

バリシュは息を止めた。

その目に怒りはなかった。

威嚇もなかった。

ただ、待っているようだった。

でも、何を。

なぜ、自分を。

バリシュは一歩、前に出ようとした。

けれど足は動かなかった。

体のどこかが、まだ戻れと言っていた。

近づけば、何かが終わる。

そんな気がした。

同時に、近づかなければ、何も始まらない気もした。

谷の風が強くなった。

岩の影が地面をゆっくり滑る。

その影の中に、犬の影だけが濃く残っていた。

まるで光からも、時間からも、少し外れているようだった。

バリシュはようやく気づいた。

自分は犬を追っているのではない。

犬に測られている。

どこまで来るのか。

どこで止まるのか。

何を恐れているのか。

声にはならなかった。

ただ、胸の奥で何かが小さく崩れた。

昨日までの違和感は、もう外の出来事ではなかった。

それは、自分の中に入り始めていた。

バリシュはゆっくり息を吐いた。

「……お前は、何を知っているんだ」

風に消えるほど小さな声だった。

犬は答えなかった。

当然だった。

それでも、その沈黙はただの沈黙ではなかった。

答えないことで、何かを返しているように見えた。

バリシュは動けないまま立っていた。

ラブバレーの奥の一本道。

近づいても、遠ざかっても、変わらない距離。

その先で、犬は静かにこちらを見ていた。

そして次の瞬間、犬は初めて、ゆっくりと背を向けた。

去っていくのではなかった。

逃げるのでもなかった。

まるで、ついて来られるかを試すように。

バリシュの足元で、小さな石がひとつ転がった。

A traveler watching a distant dog on a winding path in Cappadocia
Neither moved away, yet the distance remained.
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