逃げないものほど、人を動けなくさせる。
バリシュは、石の壁の前に立ったまま、そのことを考えていた。
階段の下。
暗い踊り場。
犬は、三本の短い傷が残る壁のそばにいた。
48話で一歩近づいた。
たった数歩だった。
それでも、その数歩のあとで、地下の空気はもう前と同じではなかった。
デリンクユ地下都市の奥は、地上の時間から切り離されていた。
石段は低く、壁は冷たく、足元には細かな砂が薄く積もっている。
息を吸うと、土と石と古い煤の匂いが胸に残った。
遠くの観光客の声は聞こえない。
ガイドの説明も、靴音も、笑い声もない。
ここには、犬と、自分と、古い傷だけがあった。
犬は動かなかった。
三本の傷の前に立ち、鼻先を石の近くへ寄せたまま、ただそこにいた。
普通の犬なら、これほど近づけば何か反応する。
警戒する。
逃げる。
吠える。
あるいは、人に寄ってくる。
でも、この犬はどれもしなかった。
逃げない。
近づきすぎない。
求めない。
ただ、ここにいろ、と言うように、沈黙していた。
バリシュはポケットの中の破片を握った。
石のへこみに少しだけ合いそうに見えた、小さな欠片。
それがただの偶然なのか、何かの一部なのか、まだ分からない。
分からないものが増えるたびに、父の輪郭は遠くなった。
いや、違う。
遠くなるのではない。
知らなかった場所から、少しずつ近づいてくる。
バリシュはその感覚が怖かった。
父は不在だった。
家にいない人だった。
母の言葉の中で途切れる人だった。
デニズの怒りの中で、形を失った人だった。
それなのに、地下の石壁の前では、父はただの不在ではなかった。
何かを残した人。
何かを黙っていた人。
そして、もしかすると、誰かをここへ導こうとした人。
そう考えかけて、バリシュはすぐに首を振った。
まだ早い。
意味を決めてはいけない。
そう思った。
けれど、犬は逃げなかった。
その事実だけが、考えを止めさせてくれなかった。
バリシュは一歩、壁へ近づいた。
犬との距離も、同時に縮まった。
犬は動かない。
バリシュは息を止めた。
自分の方が近づいている。
犬ではない。
自分が、近づいている。
その小さな事実が、胸の奥に重く落ちた。
誰かに押されているわけではない。
誰かに命じられたわけでもない。
それなのに、ここから離れることができない。
逃げたいなら、今すぐ逃げられる。
階段を戻ればいい。
地上へ出ればいい。
朝の光の中で、観光客の列に紛れればいい。
でも、戻ったところで、この犬の目は消えない。
この三本の傷も消えない。
父の沈黙も消えない。
バリシュは気づいた。
逃げることはできる。
でも、逃げた自分を連れて帰ることになる。
それが、いちばん怖かった。
犬がわずかに顔を上げた。
目が合った。
47話の時のように、胸を貫くような強さではなかった。
もっと静かだった。
待っている目だった。
バリシュは小さく言った。
「お前は、なぜ逃げない」
声は石に吸い込まれた。
犬は答えない。
答えないからこそ、問いだけが残る。

バリシュはしゃがんだ。
犬に触れる距離ではない。
まだ遠い。
けれど、立っている時より、犬の目の高さに少しだけ近づいた。
犬は動かなかった。
その落ち着きが、バリシュをさらに揺らした。
怖がっていない。
自分を恐れていない。
この場所も、暗闇も、地下の沈黙も、何一つ恐れていないように見える。
まるで、この犬にとって地下は知らない場所ではない。
バリシュは壁の傷を見た。
短い線が三つ。
48話で見つけたもの。
42話の壁の印。
43話の似た文字。
すべてが同じではない。
けれど、似ている。
似ているものは、人を離してくれない。
バリシュはポケットから破片を取り出した。
薄暗い中で、それは小さな影にしか見えなかった。
指先にざらつきが残る。
犬の耳が、ほんの少し動いた。
バリシュはその動きを見逃さなかった。
「これか」
問いかけたつもりはなかった。
だが、声になっていた。
犬は破片を見た。
それから壁の傷を見た。
ほんの一瞬だった。
だが、バリシュには十分だった。
この犬は、自分ではなく、破片と壁を見ている。
自分を導いているのではない。
少なくとも、そう決めつけるにはまだ早い。
ただ、この場所から目をそらさせない。
それだけは、確かだった。
バリシュは破片を壁の近くへ持っていった。
差し込むつもりはなかった。
ただ、近づけただけだった。
その時、犬が初めて一歩、横へ動いた。
逃げるためではない。
近づくためでもない。
場所を空けるように。

バリシュの胸が静かに跳ねた。
まるで、そこに立てと言われているようだった。
彼はゆっくり立ち上がり、犬がいた場所に近づいた。
犬は半歩下がっただけで、まだそばにいた。
近い。
これまでで一番近かった。
手を伸ばせば、届くかもしれない。
そう思った瞬間、体が固まった。
触れたいのか。
確かめたいのか。
それとも、触れてしまうのが怖いのか。
分からなかった。
犬は逃げない。
その事実が、バリシュに選択を突きつけていた。
逃げるのは犬ではない。
逃げているのは、自分の方なのかもしれない。
バリシュは破片を握りしめたまま、犬を見た。
犬の毛並みは暗がりの中で色を失っていた。
だが、首元の毛が少しだけ揺れた。
呼吸している。
生きている。
幻ではない。
記憶でもない。
意味だけの存在でもない。
そこに、体温を持っている。
そのことが、なぜか胸を痛くした。
バリシュはゆっくり手を下ろした。
まだ触れない。
今ではない。
そう思った。
けれど、逃げるつもりもなかった。
犬はそれを見ていた。
そして、ほんの少しだけ目を細めたように見えた。
笑ったわけではない。
安心したわけでもない。
ただ、待つことを続けると決めたようだった。
バリシュは壁に向き直った。
三本の傷。
その下に、わずかなへこみ。
破片の角。
彼はもう一度、破片を近づけた。
今度は、手が震えなかった。
石と破片の間に、ほんの少しの隙間が残る。
完全には合わない。

でも、無関係ではない。
バリシュは息を吸った。
その瞬間、犬がすぐそばで小さく息を吐いた。
驚くほど静かな音だった。
だが、その音は地下の中で、誰かが「大丈夫だ」と言ったように響いた。
バリシュは目を閉じなかった。
破片を戻し、ポケットにしまった。
まだ答えにしてはいけない。
まだ早い。
だが、もう否定もしない。
犬は逃げなかった。
自分も、逃げなかった。
それだけで、何かが始まってしまった気がした。
しばらくして、犬はゆっくりと奥の空間へ顔を向けた。
50話へ続くような、さらに狭く、暗い場所だった。
そこは、この地下都市の中でも、ひときわ空気が重く見えた。
犬は一歩進み、止まった。

そして、今度は振り返らなかった。
バリシュは分かった。
もう、振り返って確認する必要がないのだ。
来るかどうかは、こちらが決める。
犬は逃げない。
だからこそ、バリシュももう、逃げる理由を探せなかった。

