
人のことを知ろうとするとき、いちばん分からないのは、その人が何をしていたかより、なぜ何も残さなかったように見えるのかなのかもしれない。
午後の光は、朝よりも容赦がなかった。
アンカラの空は高く、乾いていて、壁も窓も、置かれた家具の角までくっきりと浮かび上がらせる。
見えなくていいものまで見えてしまいそうな光だった。
バリシュは、自分の部屋の窓辺に座っていた。
床の上には、たたまれた地図。
机の引き出しには、封を切っていない茶色い封筒。
頭の中には、靴の重みと、靴底に残っていた乾いた土の色。
父の痕跡は、確かに少しずつ増えている。
それなのに、父そのものは、むしろ遠くなっていく気がした。
ムスタファ。
その名前は知った。
履いていた靴も見た。
地図も見つけた。
けれど、どこへ向かったのかも、何を考えていたのかも、何をしていた人だったのかも分からない。
残っているものはある。
でも、それらがひとつの人間に結びつかない。
その矛盾が、今日はいつも以上に息苦しかった。

部屋の外から、布をはたく音が聞こえた。
乾いた、短い音。
それが二度、三度と続く。
バリシュは立ち上がって廊下に出た。
中庭に面した小さなベランダで、エミネが洗った布を干していた。
白いシーツの端が、光を受けて眩しいほど明るい。
風は弱いのに、布だけが空を知っているように揺れていた。
エミネは、洗濯ばさみを口にくわえたままこちらを見た。
「どうしたの」
その言い方は、いつものように静かだった。
「母さん」
バリシュは自分でも驚くほどまっすぐな声で言った。
「父さんって、何をしていた人なんだ」
エミネの手が止まる。
洗濯ばさみを外して指先で持ち直す、その小さな動きだけが見えた。
バリシュはその沈黙を待った。
前なら、その沈黙だけで引き下がっていたかもしれない。
けれど今は、引き下がれなかった。
「地図があった。靴もあった。名前もある。でも、肝心なことだけが何もない」
言葉は自然に出た。
いや、自然ではなかった。
今まで胸の奥に押し込んでいたものが、ようやく出口を見つけたような出方だった。
「何をしてた人なんだよ。仕事も、行き先も、考えてたことも、全部分からないまま残ってるって、おかしいだろ」
最後の一言は、少しだけ強くなった。
怒っているのかもしれない、とバリシュはそのとき初めて思った。
父に対してなのか。
母に対してなのか。
何も知らされなかった自分自身に対してなのか。
それは分からない。
エミネは、しばらく空いた洗濯かごの中を見ていた。
やがて、洗濯ばさみをひとつだけ欄干の上に置く。
「おかしいのは、分かってるわ」
その言葉に、バリシュは少し息を止めた。
否定されると思っていた。
あるいは、また静かにかわされると思っていた。
けれど母は、矛盾そのものを否定しなかった。
「でもね」
エミネは、白い布の向こうの空を見たまま言った。
「人には、説明できる形で残る部分と、そうじゃない部分があるの」
「それじゃ何も分からない」
「ええ、分からないのよ」
その答えは、妙に静かだった。
静かすぎて、かえって腹が立った。
「分からないって、そんなままでいいのかよ」
バリシュの声は、今度ははっきり揺れた。
「俺はあの人の息子なんだぞ。何をしてた人かも分からないって、どういうことだよ」
エミネは、ようやくこちらを見た。
その目には怒りも涙もなかった。
ただ、長い時間をかけて受け止めてきたものだけがあった。
「あなたは、あの人を一つの言葉で知りたいのね」
「……違う」
反射的に否定した。
けれど、完全には否定できなかった。
仕事でもいい。
役目でもいい。
肩書きでもいい。
何か一つ、軸になる言葉がほしかった。
地図を持っていた人。
風を聞いていた人。
靴を長く履いていた人。
それだけでは足りない気がしていた。
エミネは、欄干に干した布のしわを、指先で静かに伸ばした。
「あなたのお父さんはね、何か一つで説明できる人じゃなかった」
その言い方は、第3話の「簡単に言える人じゃないわ」とよく似ていた。
けれど、今回は少しだけ近かった。
バリシュは何も言わない。
エミネは続ける。
「真面目だった。黙っている人だった。遠くを見る人だった。家にいるときはちゃんとここにいたし、いないときは最初からどこか別の場所にいるみたいな人でもあった」
その言葉の並びに、バリシュは小さく息をのんだ。
ここにいるのに、どこか別の場所にいる。
それは矛盾している。
けれど、これまで見つけたものは全部そうだった。
地図はあるのに、行き先はない。
痕跡はあるのに、説明はない。
父はいたのに、家では最初からいなかったように扱われている。
「……なんなんだよ、それ」
バリシュの声は、ほとんど独り言のようだった。
エミネは、少しだけ目を伏せる。
「だから、言葉にすると違ってしまうのよ」
その一言で、また第4話の夜の台所が胸の奥に戻ってきた。
言葉にすると、形が変わる。
それでも言葉にしなければ、何も掴めない。
その矛盾の中に、母もずっと立っていたのだと、今になって少しだけ分かる。
「じゃあ、俺はどうやって知ればいいんだ」
それは問いというより、痛みに近かった。
エミネは答えなかった。
代わりに、干したばかりのシーツの端を押さえた。
その白い布の向こうで、空だけが広く続いている。
「残ってるものを見なさい」
やがて、彼女はそう言った。
「でも、残ってるものだけで決めつけないで」
バリシュはその言葉を聞いて、ゆっくりと目を閉じた。
残っているものは少ない。
でも少ないからこそ、それに意味を与えたくなる。
靴があれば、そこから人を想像してしまう。
地図があれば、そこから旅を作ってしまう。
封筒があれば、そこに答えが入っていると思ってしまう。
けれど、父はそのどれでもない。
その感覚が、ようやく少しだけ分かった。
分からないまま、少しだけ分かる。
それがいちばん苦しい。
風が、洗いたての布を揺らした。
シーツがふくらんで、また静かにしぼむ。
その向こうにいる母の姿が、見えたり隠れたりする。

バリシュは、その揺れを見ながら思った。
自分が知りたいのは、父の職業だけではない。
何をしていたか、だけでもない。
どう生きていた人だったのかを知りたいのだ。
けれど、それはきっと、ひとつの答えでは終わらない。
エミネは、洗濯かごを持ち上げた。
そして部屋へ戻る前に、一度だけ言った。

「あなたは、あの人に似ているわ。だから急ぐの」
その言葉は、優しさでも慰めでもなかった。
ただ静かに、胸の奥へ落ちてきた。
急ぐ。
確かにそうかもしれない。
答えのないまま立っていることに、もう耐えられなくなっている。
けれど父も、そういう人だったのだとしたら。
バリシュは、風に揺れる白い布を見上げた。
向こう側は見えない。
でも、そこに空があることだけは分かる。
それだけで、人は前へ進もうとするのかもしれなかった。

