第22話 ギョレメの洞窟住居|父の地図に残された地下の入口

Barış standing before a cave entrance in Göreme, Cappadocia

朝の町は、少しずつ人の声を取り戻していた。

ギョレメの細い道には、焼きたてのパンの匂いと、乾いた土の匂いが混ざっていた。店先では絨毯が風に揺れ、陶器の皿が朝の光を受けて鈍く光っている。

けれど、バリシュの耳には、そのどれも少し遠かった。

昨夜から、いや、正確には昨日の朝から、何かが自分より少し先を歩いている気がしていた。

見えない足音。
岩の影。
遠くの犬の声。

そのどれも、はっきりした証拠にはならない。

でも、何もなかったと言い切るには、胸の奥に残るものが重すぎた。

Barış tracing a faded mark on an old map in a quiet room Title:
A small mark on an old map quietly points beyond the known road.

バリシュは、宿を出る前にもう一度だけ地図を開いた。

父の引き出しに眠っていた古い地図。
何度も折られ、何度も開かれ、肝心な行き先だけが書かれていなかった地図。

ネヴシェヒルの近くに、かすれた鉛筆の線があった。

それは町の名前を示しているというより、どこか“奥”へ向かっているように見えた。

観光地として有名な場所に丸があるわけではない。
大きな道に印がついているわけでもない。

ただ、名前のない小さな印が、岩の多い地域のあたりに一つだけ残っていた。

バリシュはその印を指でなぞった。

なぜ父は、ここに印をつけたのか。
それとも、これは父がつけたものではないのか。

答えはなかった。

ただ、紙の上のその小さな跡が、昨日見た岩の入口と重なって見えた。

町の奥へ入ると、観光客の声は少しずつ薄くなっていった。

Quiet stone alley with ancient cave dwellings in Göreme
The road remained empty, carrying only silence and time.

道は細くなり、石の壁が近づいてくる。

岩の中に掘られた古い穴が、ところどころ口を開けていた。

住居だったのか。
倉庫だったのか。
祈るための場所だったのか。

今のバリシュには分からない。

ただ、その入口の暗さだけが、妙に生きているように見えた。

人がいなくなった場所なのに、完全には空っぽではない。

誰かが暮らし、誰かが息をし、誰かが何かを隠したかもしれない場所。

その前に立つと、アンカラの家の引き出しを開けた時と同じ匂いがした。

古い紙。
閉じられた空気。
触れてはいけないものの近くにいる感覚。

バリシュは足を止めた。

Barış standing beside an ancient cave dwelling in Göreme
He stopped without knowing why.

入口は、腰を少しかがめなければ入れないほど低かった。

中は暗く、奥までは見えない。

光は入口のすぐ近くで止まり、その先は灰色の影に沈んでいた。

風が、岩の中から細く流れてきた。

冷たい。

外の風とは違う。

乾いているのに、どこか湿った記憶を含んでいるような冷たさだった。

バリシュは思わず、ポケットの中の地図を握った。

父も、ここに立ったのだろうか。

そんな考えが、また浮かんだ。

根拠はない。
母は何も言っていない。
地図の印も、この場所を指しているとは限らない。

それでも、胸の奥で何かが静かに重なっていく。

アンカラの家。
古い引き出し。
書かれていない行き先。
父の靴。
そして、この岩の入口。

Ancient cave entrance carved into rock in Göreme, Cappadocia
The darkness revealed nothing, yet invited a closer look.

全部が一つの線になるわけではない。

けれど、ばらばらのままでもなくなっていた。

「入るんですか?」

背後から声がした。

振り返ると、昨日の宿の若い男が立っていた。手には布袋を持ち、配達の途中のようだった。

「ここは……入ってもいいんですか」

バリシュが聞くと、男は少しだけ肩をすくめた。

「奥までは危ないです。でも、入口のあたりなら。昔の住居です。今は誰も使ってません」

誰も使っていない。

その言葉のあと、入口の奥の暗がりが少し深く見えた。

「こういう場所、多いんですか」

「このあたりには多いですよ。岩の中に住んでいた人たちがいましたから。昔は、外より中の方が安全だったんです」

外より中の方が安全。

バリシュは、その言葉を心の中で繰り返した。

アンカラでは、家の中にいた方が安全だった。

少なくとも、そう思っていた。

けれど、その家の中には、語られなかったものが残っていた。

では、ここではどうなのだろう。

岩の中に入ることは、隠れることなのか。

守られることなのか。

それとも、外では見えないものに近づくことなのか。

若い男は、バリシュの表情を見て、少し不思議そうにした。

「初めて来る人は、みんな写真を撮ります。でも、あなたはあまり撮らないですね」

「見るだけで、少し疲れます」

自分でも妙な答えだと思った。

けれど男は笑わなかった。

「分かります。ここはきれいです。でも、軽くないです」

軽くない。

その言葉は、この土地にふさわしかった。

バリシュは小さくうなずいた。

男が去ったあと、道はまた静かになった。

観光客の声は遠く、岩の入口だけが目の前に残った。

バリシュは一歩、近づいた。

中の空気が顔に触れる。

外より冷たい。

その冷たさは、拒むようでもあり、待っているようでもあった。

入口の壁に、細い傷のようなものがあった。

自然にできたものか、誰かがつけたものかは分からない。

バリシュは指で触れようとして、途中で止めた。

A hand touching an old carved symbol beside a cave entrance in Cappadocia
Some traces remain long after the people who left them are gone.

その形が、地図の小さな印に似ている気がした。

似ているだけだ。

偶然かもしれない。

けれど、偶然という言葉は、もう簡単には使えなくなっていた。

その時だった。

奥の暗がりから、かすかな音がした。

石を踏むような音。

小さく、乾いていて、すぐに消える音。

バリシュは息を止めた。

「誰か、いますか」

声は入口の内側で小さく反響し、すぐに吸い込まれた。

返事はない。

ただ、しばらくしてから、奥の方でまた音がした。

今度は一度だけではなかった。

一歩。
そして、もう一歩。

バリシュの指が、ポケットの中の地図を強く握った。

入るべきではない。

そう思った。

けれど、目を離すこともできなかった。

暗がりの奥で、何かが動いた気がした。

犬の影ではない。

人の影でもない。

ただ、光が届かない場所で、空気そのものが少しずれたように見えた。

バリシュは一歩だけ後ろへ下がった。

心臓の音が、耳の奥で大きくなっている。

外のギョレメは、変わらず朝の中にあった。

道には光があり、遠くで人が笑い、どこかでチャイグラスが触れ合う音がした。

でも、目の前の入口だけは、別の時間につながっているようだった。

父は、ここを知っていたのか。

それとも、この場所が父を知っているのか。

その問いが浮かんだ瞬間、奥からもう一度、足音がした。

今度は、はっきりと。

バリシュは動けなかった。

入口の暗がりは、何も答えなかった。

ただ、その奥で誰かが、こちらへ近づいてくるような気配だけが残っていた。

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