そこにいた。
バリシュは、最初そう思っただけだった。
犬だ、とは思わなかった。
影だ、とも思わなかった。
ただ、そこにいる。
その事実だけが、地下の冷たい空気の中で、静かに立っていた。
デリンクユ地下都市の通路は、奥へ進むほど広さを失っていった。
壁は肩に近く、天井は低い。
息を吸うたびに、石と土の匂いが胸の奥に沈んでいく。
遠くでは、観光客の声がかすかに聞こえていた。
けれど、その声はもう別の世界のものだった。
バリシュの目の前にあるのは、暗がりだけだった。
その暗がりの低い位置に、輪郭があった。
四本の足。
静かな背。
大きすぎるほど落ち着いた姿勢。
バリシュは息を止めた。
あの犬だった。
カッパドキアの谷で遠くから見えた影。
ラブバレーで距離が変わらなかった存在。
ゼルベの廃墟で、こちらを見ていた気配。
地下で、音だけを残して近づいてきたもの。
それが、今、目の前にいた。

犬は動かなかった。
吠えない。
唸らない。
逃げない。
ただ、そこにいる。
その静けさが、かえってバリシュを動けなくした。
普通なら、犬が地下都市の奥にいること自体がおかしい。
観光客の犬でもない。
首輪も見えない。
誰かに連れられている様子もない。
それなのに、犬は迷っているようには見えなかった。
ここを知っている。
そう見えた。
バリシュは、掌の中の小さな破片を思い出した。
44話で壁のすき間から取り出したもの。
45話で捨てられず、ポケットに入れたもの。
父の痕跡かもしれないもの。
意味のない破片かもしれないもの。
犬の目は、そのポケットのあたりを見ているように思えた。
バリシュはゆっくり手を下ろした。
触れるつもりはなかった。
ただ、自分の動きで犬がどう反応するかを見たかった。
犬は動かなかった。
地下の沈黙が、二人の間に細く張られていた。
バリシュは一歩も進めなかった。
でも、戻ることもできなかった。
戻れば、地上に出られる。
光がある。
人がいる。
自分が見たものを、疲れのせいにできる。
けれど、目の前の存在は、もう気のせいではなかった。
彼はようやく気づいた。
自分はずっと、これが気のせいであってほしかったのだ。
父の地図も。
壁の印も。
似ている文字も。
石のすき間に挟まっていた破片も。
そして、この犬も。
全部、偶然であってほしかった。
偶然なら、戻れる。
偶然なら、考えなくていい。
偶然なら、父の沈黙も、母の沈黙も、自分の胸の重さも、ただの過去にできる。
でも、犬はそこにいた。
何も語らずに、偶然という言葉を消していた。
バリシュは小さく息を吐いた。
「どうして……ここにいる」
声は、問いというより、こぼれたものだった。
犬は答えなかった。
ただ、耳をわずかに動かした。
その小さな動きに、バリシュの胸が不思議に揺れた。
敵意はない。
恐怖も、完全には消えない。
けれど、45話で感じた“誰か”という感覚は、間違いではなかった。
これは、ただの影ではない。
ただの音でもない。
ただの迷い犬でもない。
そこにいる存在だった。
バリシュは足元を見た。
石の床には、細かな砂が溜まっていた。
犬の足跡があるかどうかを探した。
あった。

浅い跡だった。
けれど、確かにそこに残っていた。
それを見た瞬間、バリシュは奇妙な安心を覚えた。
足跡がある。
つまり、これは夢ではない。
幻ではない。
しかし同時に、もっと深い不安が生まれた。
夢でないなら、これは何なのか。
犬は、ゆっくりと顔を横へ向けた。
通路の奥ではなく、石の扉の方だった。

44話で似た傷を見つけた場所。
父の痕跡かもしれない印があった場所。
バリシュはその視線を追った。
犬は一歩も動かない。
ただ、見る。
それだけだった。
それだけなのに、バリシュには伝わった。
見ろ、と言っているようだった。
いや、言葉ではない。
命令でもない。
ただ、そこに注意を向けさせるような、静かな力。
バリシュは石の扉へ視線を戻した。
短い線が三つ。
浅い傷。
そこから少し離れた場所に、見落としていた小さなへこみがあった。
昨日は気づかなかった。
さっきも気づかなかった。
犬が見なければ、たぶん見つけなかった。
バリシュはゆっくり近づいた。
今度は犬ではなく、石の扉に近づいた。
指先でへこみの周りをなぞる。
冷たい石。
古い砂。
かすかな線。
そこには、何かを差し込んだような跡があった。
破片。
バリシュはポケットに手を入れた。
小さな破片の角が、指先に触れた。
取り出そうとして、手が止まった。
犬の方を見た。
犬はまだそこにいた。
暗がりの中で、静かに立ち、こちらを見ている。
バリシュは、その目を正面から見ることができなかった。
見てしまえば、何かを認めてしまう気がした。
父とこの地下。
この破片と石の扉。
この犬と自分。
全部が、一本の見えない線で結ばれている。
そんなことを認めたくなかった。
けれど、もう否定するには、目の前の存在が近すぎた。
バリシュは破片を取り出した。
地下の薄い光の中で、それは乾いた色をしていた。
何の価値もない、小さな欠片に見える。
でも、石のへこみへ近づけると、形が少しだけ合うように見えた。

完全ではない。
ぴたりとはまるわけでもない。
けれど、無関係とは思えなかった。
バリシュの喉が乾いた。
その時、犬が初めて動いた。
一歩だけ。
音はほとんどしなかった。
ただ、石の床に重さが移る気配だけがあった。
バリシュは反射的に身を引いた。
犬はそれ以上近づかなかった。
ただ、一歩分だけ距離を縮めて、止まった。
逃げない。
追わない。
急がせない。
待っている。
その姿を見て、バリシュの中で何かが少し崩れた。
怖いのは、この犬ではない。
この犬が見せようとしているものだ。
バリシュはそう思った。
父のことを知るのが怖い。
自分が知らなかった家族を見るのが怖い。
ここまで来た理由が、偶然ではなかったと知るのが怖い。
犬は、ただそこにいるだけだった。
でも、その存在は、バリシュの逃げ道を静かにふさいでいた。
彼は破片を握りしめた。
今は、差し込まない。
まだ早い。
そう思った。
けれど、それを戻すこともできなかった。
バリシュは犬を見た。
今度は、目をそらさなかった。
暗がりの奥で、犬の瞳がわずかに光を受けていた。
冷たくはなかった。
優しくもなかった。
ただ、深かった。
そこに答えはなかった。
でも、問いはあった。
お前は、進むのか。
そんな声が、聞こえた気がした。
バリシュは何も言わなかった。
犬も何も言わなかった。
二つの沈黙だけが、地下の広めの空間に並んでいた。
そして、遠くで観光客の声がまた聞こえた瞬間、犬はゆっくりと顔を奥の通路へ向けた。
そこへ行け、ということなのか。
そこへ来るな、ということなのか。
分からなかった。
ただ一つだけ、バリシュには分かった。
この犬は、偶然ここにいるのではない。
そして自分も、偶然ここまで来たのではない。
犬はもう一歩、暗がりの奥へ進んだ。
振り返らなかった。
それでも、バリシュには分かった。
あれは逃げているのではない。
待っているのだ。


