目が合う前から、見られていることは分かっていた。
バリシュは、暗い奥の通路を見つめたまま動けなかった。
46話で確かにそこにいた犬は、もう広めの空間にはいなかった。
だが、消えたわけではない。
奥へ進んだ。
逃げたのではなく、待つように。
その違いだけは、なぜか分かった。
デリンクユ地下都市の空気は、さらに冷えていた。
通路は低く、壁は肩のすぐ近くに迫っている。
石の匂い、湿った土の匂い、古い煤の匂いが、息をするたび胸の奥に沈んだ。
遠くの観光客の声は、もう聞こえなかった。
ここでは、人の世界が一枚ずつ剥がれていく。
バリシュはポケットの中の破片に触れた。
小さく、乾いていて、価値のないものに見える欠片。
けれど、石の扉のへこみと重ねた時、無関係とは思えなかった。
父の痕跡。
地下の印。
そして、あの犬。
すべてが同じ暗がりの中に集まっていた。
バリシュは一歩進んだ。
靴の音が、思ったより大きく響いた。
その音が通路の奥へ流れ、曲がり角の先で細く消える。
犬はまだ見えない。
だが、そこにいる。
その確信が、目より先に体に届いていた。
通路の先は右へわずかに曲がっていた。
壁の一部が黒ずみ、低い天井には人の肩が何度も触れたような丸みがあった。
昔、ここを誰かが通った。
身をかがめ、声を殺し、外の世界から隠れるように。
父も、ここを歩いたのだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな痛みが生まれた。
父は家にいなかった。
だが、どこにもいなかったわけではない。
どこかにいた。
何かを見ていた。
何かを選んでいた。
その可能性が、バリシュを苦しくさせた。
知らなかった父が増えていく。
知っていたはずの父が、遠くなる。
通路の奥で、かすかな音がした。
爪が石に触れる音ではなかった。
もっと小さい。
息のような、重さのない音。
バリシュは足を止めた。
暗がりの低い位置に、輪郭があった。
犬はそこにいた。
さっきより近い。
だが、近づきすぎてはいない。
自分で距離を選んでいるようだった。
バリシュは喉を鳴らした。
「……なぜ、逃げない」
声にしたあと、自分が何を聞いているのか分からなくなった。

犬に聞いたのか。
父に聞いたのか。
それとも、自分自身に聞いたのか。
犬は答えなかった。
ただ、顔を上げた。
その瞬間だった。
目が合った。
バリシュの体から、余計な音が消えた。
呼吸も、足元の冷たさも、壁の圧迫感も、少し遠くなった。
犬の目は、鋭くはなかった。
優しくもなかった。
人を安心させるような目ではない。
ただ、深かった。
長い時間を見てきたような目だった。
言葉を持たないのに、何かを知っている目だった。
バリシュは目をそらせなかった。
その目の中に、父の顔が映ったわけではない。
過去が見えたわけでもない。
けれど、胸の奥で何かが開いた。
怖い。
そう思った。
でも、その怖さは、襲われる怖さではなかった。
見られてしまう怖さだった。
自分が隠してきた迷い。
父を知りたい気持ち。
知りたくない気持ち。
母を責めたい気持ち。
デニズの怒りから逃げたい気持ち。
そういうものを、すべて見られている気がした。
バリシュは小さく目を伏せそうになった。

その時、犬がほんの少しだけ首を傾けた。
責めているようではなかった。
急がせているようでもなかった。
ただ、待っている。
その姿が、バリシュの中の何かを静かに揺らした。
待たれることが、こんなに苦しいものだとは知らなかった。
誰かに命令される方が、ずっと楽だった。
答えを示される方が、ずっと簡単だった。
だが、この犬は何も言わない。
道を押しつけない。
ただ、そこにいて、バリシュが選ぶのを待っている。
それが、いちばん逃げにくかった。
バリシュはポケットの中の破片を握った。
父も、誰かに待たれていたのだろうか。
それとも、誰かを待っていたのだろうか。

答えはない。
だが、犬の目を見ていると、父の不在がただの空白ではなくなっていく気がした。
何かを残した空白。
誰かに届くのを待っていた空白。
バリシュは息を吸った。
「俺に、行けというのか」
犬は動かなかった。
だが、その目はそらされなかった。
答えではない。
合図でもない。
それでも、バリシュは感じた。
これは、進めと言っているのではない。
進むかどうかを、自分に聞いているのだ。
地下の暗さが、急に深くなったように思えた。
通路の先には、さらに細い道が続いている。
そこへ行けば、もっと父に近づくかもしれない。
同時に、戻れない何かに触れてしまうかもしれない。
バリシュは目を閉じなかった。
今度は、そらさなかった。
犬の目を見たまま、ほんの少しだけ足を前へ出した。
まだ近づいたとは言えない。
ただ、逃げなかっただけだった。
それでも、その小さな動きに、犬の耳が静かに動いた。
まるで、それで十分だと言うように。
バリシュの胸の奥で、恐怖が少しだけ形を変えた。
恐怖の中に、別のものが混ざっていた。
好奇心ではない。
期待でもない。
もっと静かなもの。
信じたい、という感覚に近かった。
犬はゆっくりと体の向きを変えた。
奥の通路へ向かう。
しかし、完全には進まなかった。
半分だけ振り返るように、横顔を見せた。
バリシュはその姿を見て、理解した。
待っている。
さっきもそうだった。
今もそうだった。
この犬は、自分を置いていかない。
だが、引っ張りもしない。
進むかどうかは、こちらに残している。
バリシュは小さく息を吐いた。
「分かった」
45話でも同じ言葉を言った。
だが、あの時とは違った。
今度は、何かを分かったのではない。
分からないまま、進むしかないことを分かったのだ。
犬の目が、暗がりの中でわずかに光った。
その光はすぐに消えた。
けれど、バリシュの中には残った。
そして犬は、音もなく奥へ一歩進んだ。
バリシュも、今度は止まらなかった。
まだ触れない。
まだ呼ばない。
まだ名前もない。
それでも、二つの影は、同じ方向を向き始めていた。
暗い奥の通路で、犬がもう一度だけ振り返った。
その目は、今度は問いではなかった。
まるで、こう言っているようだった。
次は、お前の一歩だ。


