第5話 古い引き出し|母の沈黙の奥に残された父の痕跡

Old wooden drawer in a quiet Ankara house at morning light

古い木は、触れる前から何かを知っているように見えることがある。
朝の光がまだ浅いうち、家の中には夜の名残が少しだけ残っていた。

廊下の空気は冷たく、窓の外ではアンカラの街がゆっくりと目を覚まし始めている。遠くでパン屋の扉が開く音がして、乾いた朝の匂いの中に、焼きたての生地の甘い香りがかすかに混じった。

バリシュは、自分の部屋を出てすぐに足を止めた。

昨夜、母が言った言葉が、まだ胸の奥に残っていた。

「今はまだ、私の言葉にしないで」

あの言い方は、拒絶とは少し違っていた。

話さないことが、隠すことと同じではないのだと、昨夜初めて思った。

けれど、それで知りたい気持ちが消えたわけではなかった。
むしろ逆だった。

言葉にされないものほど、形を知りたくなる。

廊下の先、窓から差す光の中に、あの棚が静かに立っていた。

何年も前からそこにある、見慣れたはずの木の棚。
角は少し丸くなり、取っ手の金具には時間の色が沈んでいる。子どものころから何度も目にしてきたのに、近づこうと思ったことはほとんどなかった。

今日は、その前から離れられなかった。

バリシュはゆっくりと近づいた。
床板が、かすかに軋む。
その音さえ、この家では妙に大きく聞こえる。

棚の前に立つと、木の匂いがした。
乾いた、少し古い匂い。

それは押し入れの中の冬物の毛布や、長く閉じられていた部屋の空気に似ていた。

懐かしいのに、どこか触れてはいけないもののようでもある匂いだった。

バリシュは一番下の引き出しに目を落とした。
そこだけが、ほんの少しだけ擦れている。

何度も開け閉めされた痕跡なのか、それとも気のせいなのか分からない。

けれど、なぜか昨日まで見えなかったものが、今日は見えてしまう気がした。

手を伸ばしかけた、そのとき。

Barış opening an old wooden drawer while Deniz watches in a quiet Ankara hallway
Some silences begin long before a single word is spoken.

「それ、壊れてるわけじゃないよ」

後ろから声がした。

振り返ると、デニズが廊下の壁にもたれて立っていた。
まだ寝起きなのか、髪は少し乱れていて、片手には水の入ったコップを持っている。

「びっくりした」

「こっちのせりふ。朝から何してるの」

バリシュは少しだけ肩をすくめた。

「別に」

その答えに、デニズは小さく笑った。

「別に、って顔じゃない」

軽い言い方だった。
けれど、からかうというより、見抜いている感じがした。

デニズは棚のほうを見た。
それから、バリシュの手元へ視線を移す。

「そこ、母さんあんまり触らないよね」

「知ってるのか」

「知ってるっていうか……見れば分かるでしょ」

彼女は壁から背を離し、少しだけ近づいてきた。
けれど、引き出しそのものには触れなかった。

「昔、一回だけ開いてるの見たことある」

その言葉に、バリシュの胸が小さく動く。

「何が入ってた?」

デニズはすぐには答えなかった。
コップの水をひと口飲んで、少し考えるように目を細める。

「覚えてない。紙みたいなのがあった気はする。たぶん」

“たぶん”という言い方が、かえって本当らしかった。
はっきり覚えているわけではない。
でも、何もなかったわけでもない。

「母さんに見つかって、すぐ閉めてた」

デニズはそう言って、廊下の窓の外を見た。

「その顔、やめなよ。怖い」

「どんな顔してる」

「戻れなくなりそうな顔」

その言葉に、バリシュは一瞬だけ息を止めた。

昨夜、母も似たようなことを言っていた。
戻れなくなるものもある。

そうは言わなかったが、あの沈黙の奥には確かにそれに近いものがあった。

デニズはそれ以上言わず、コップを持ったまま台所のほうへ行ってしまった。

いつものように軽くて、けれど何かだけを残していく歩き方だった。


廊下には再び静けさが戻る。

バリシュは引き出しの前に立ったまま、しばらく動かなかった。
開けていいのか分からない。

でも、開けなければ何も変わらない気もした。

自分の中にあるのは勇気というより、もう誤魔化せなくなった感覚だった。

そっと、取っ手に手をかける。
金具は朝の冷たさをそのまま持っていた。

少しだけ力を入れると、引き出しは思ったよりも素直に動いた。
木が擦れる、乾いた音。
その音だけで、胸の奥がざわつく。

引き出しの中には、思ったより物が少なかった。

古い布。
端の折れた小さな紙片。
それから、茶色く変色しかけた封筒がひとつ。

バリシュはしばらく、それを見つめていた。

何か特別なものには見えない。
なのに、そこにあるというだけで空気が変わる。

まるで、この家の中で言葉にされなかった時間が、形だけになって残っているようだった。

封筒を手に取る。
軽かった。
けれど、軽いことが逆に不自然だった。

何かが入っている。
でも厚みはほとんどない。

差出人も宛名も、表には書かれていない。
ただ、角のところに、薄く指の跡のような色が残っていた。

何度も触れられたのか、それとも一度だけ強く握られたのか、分からない。

封は閉じられたままだった。

バリシュの指先に、わずかに力が入る。
開けようと思えば、今すぐ開けられる。
ここまで来たのなら、それが自然にも思えた。

けれど——

その瞬間、背後で床がきしんだ。
振り向くと、誰もいない。

ただ、廊下の奥から朝の風が細く流れ込んできて、引き出しの中の紙の端をほんの少しだけ揺らした。

その揺れで、封筒の下に隠れていたものが見えた。

小さな紙片だった。
破れたメモのような、切れ端。

そこには、インクのかすれた文字がひとつだけ残っていた。

Old envelope hidden inside a wooden drawer in an Ankara house
Some memories remain quiet until someone finally opens the drawer.

……afa

それだけだった。
最初の文字は切れていて読めない。

けれど、その欠けた音の並びだけで、バリシュの胸に名前が浮かび上がる。

ムスタファ。

完全な証拠ではない。
けれど、偶然とも思えなかった。

父の名前は、もうただの記憶ではない。
この家の中に、実際に触れられる形で残っていた。

バリシュは紙片を指先で持ち上げた。
あまりにも軽く、少し力を入れただけで壊れてしまいそうだった。

そのとき、背後から母の声がした。

「それは——」

短い声だった。
叫びではない。
けれど、今まで聞いたことのない速さで出た声だった。

バリシュは振り返る。
エミネが廊下の入口に立っていた。

顔色は変わっていない。
けれど、その目だけが静かではなかった。

母はすぐには近づいてこなかった。
ただ、その場でバリシュと引き出しを交互に見ていた。

そして、小さく言った。

「そこは、開けないでほしかった」

責める声ではなかった。
悲しみに近い、けれどそれだけでもない声だった。

バリシュは封筒と紙片を見下ろす。
自分がしてしまったことの重さが、今になって遅れて胸へ落ちてくる。

「……これ、父さんのか」

エミネはすぐには答えなかった。
その沈黙の長さが、もう答えのようだった。

けれど彼女は最後まで肯定もしなかった。
ただ、ゆっくりとこう言った。

「残っているものが、全部答えになるとは限らないわ」

その言葉は、否定のようでいて否定ではなかった。
むしろ、真実の断片ほど人を迷わせるのだと言っているようだった。

バリシュは紙片を見つめた。

……afa
たったそれだけ。

それだけなのに、もう見なかったことにはできない。

朝の光が少しだけ強くなり、廊下の木目を白く照らした。

その中で、引き出しだけが静かに口を開けたままだった。

バリシュは思った。

本当に怖いのは、何もないことじゃない。
少しだけあることなのかもしれない。

全部が分かれば、まだ受け止めようがある。
でも、断片だけが残されていると、人はその隙間に自分の想像を流し込んでしまう。

エミネはそれ以上何も言わなかった。

バリシュも、封筒を開けることはできなかった。

Barış standing alone in a quiet Ankara hallway at morning
Some mornings feel as if the house remembers more than the people inside it.

ただ、引き出しの前に立ったまま、初めてはっきりと感じていた。

この家の中には、もう戻れない場所が本当にある。

そして自分は、今その入口に立ってしまったのだと。

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