第18話 アンカラ・ハマモニュで感じた心の違和感|静かな街でなぜか落ち着かない午後

Barış sitting with an old man on a quiet bench in Hamamönü, Ankara at sunset

昼を少し過ぎたハマモニュは、同じアンカラの中にありながら、ほかの場所より時間の流れが遅かった。石畳の細い道。修復された古い家々の木の窓枠。軒先に下がる小さな鉢植え。どこかの店から煮出したチャイの匂いが漂い、乾いた空気の中に木と土のやわらかい匂いが混じっていた。遠くで車の音はしているのに、この一角まで来ると、それはもう別の街の音のように薄くなる。

バリシュは、坂の途中で足を止めた。

自分でも、どうしてここまで来たのかを正確には説明できなかった。

家の前を離れたあと、まっすぐ駅の方へ向かう気にはなれなかった。
かといって、また家の中へ戻ることもできなかった。
それで歩いた。

クズライでは人が多すぎた。
ウルスでは過去の匂いが近すぎた。
そのどちらでもない場所を求めるうちに、足はハマモニュへ向いていた。

Barış walking alone through a quiet stone street in Hamamönü
He kept walking, even though the silence felt heavier with every step.

ここなら少しは考えられる気がした。

静かで、古くて、誰にも急かされない。
アンカラの中でも、まだ呼吸をゆっくりしている場所。

理屈で物事を整理したいとき、人はこういう場所へ来るのかもしれない、とバリシュは思った。

けれど、いざ来てみると、静けさは落ち着きをくれなかった。
むしろ逆だった。

石畳を踏む靴音だけが自分のものとしてはっきり聞こえる。
窓辺に置かれた古い椅子。
日陰に寄せられた木箱。
観光客の笑い声さえ、少し遅れて耳に届く。

何も乱れていない。
何も壊れていない。
それなのに、自分の内側だけが噛み合っていないようだった。

Empty stone street with long shadows in Hamamönü, Ankara
The street was quiet, but the feeling of being watched remained.

17話の家の前で思い出しかけた犬の影が、まだ胸の奥に残っていた。

父の隣。
門の低い位置。
気のせいかもしれない気配。

思い出せないのに、消えない。

それが気持ち悪かった。

ハマモニュの奥へ進むと、小さな広場のように少しだけ開けた場所があった。古い木のベンチが一つ、影の中に置かれている。陽の当たる石畳は白く明るいのに、そのベンチのまわりだけは温度が少し低いように見えた。バリシュはそこに座った。

Quiet courtyard with empty benches in Hamamönü Ankara
Even empty places seemed to remember someone.

風は弱かった。

聞こえるのは、遠くの食器の触れ合う音と、鳥の短い鳴き声だけだった。

こんな場所なら、落ち着くはずだった。

なのに、胸のざわつきは薄くならない。
むしろ静けさの分だけ、はっきりしていく。

――このままここにいてもだめだ。

その感覚だけが、理由より先にあった。

何がだめなのかは分からない。
何を探しに行くのかも、まだ言葉にならない。
でも、ここに座っていても、家に戻っても、同じところを回り続けるだけだという予感があった。

そのとき、すぐ横で杖の先が石に当たる小さな音がした。

気づかなかった。

いつの間にか、ベンチの反対側に老人が立っていた。

Barış sitting beside an old man on a bench in Hamamönü, Ankara
Some conversations do not give answers. They only make the silence clearer.

ウルスで会った老人とは別人だった。

こちらの男はもう少し痩せていて、濃い紺色の上着を着ていた。帽子の影で目元は少し見えにくいが、立ち方には不思議な静けさがあった。呼びかけるでもなく、見張るでもなく、ただそこにいることが自然な人だった。

「座っても?」

低い声だった。

バリシュは少しだけ身をずらした。

「どうぞ」

老人はゆっくり腰を下ろした。

それ以上すぐには話さない。

二人のあいだに、ハマモニュの午後の静けさがそのまま落ちた。

やがて、老人が前を向いたまま言った。

「落ち着きたい顔で来たのに、余計に落ち着かなくなったな」

バリシュは思わず顔を向けた。

「そんなふうに見えますか」

「見える」

老人は短く言った。

「それに、お前」

そこで少しだけ言葉を切ってから、静かに続けた。

「誰かに“呼ばれてる顔”をしてるな」

その一言で、バリシュの中の何かが止まった。

呼ばれている。

その言い方は、あまりにも正確すぎた。
自分でも言葉にできなかった違和感を、他人が先に口にした気がした。

「……そんな顔、してますか」

老人は笑わなかった。

「してる。行き先が分かってる顔じゃない。だが、戻る顔でもない」

その言葉は、まるで第14話から17話までの自分を、そのまま見抜いたようだった。

クズライで立ち止まり、バス停で迷い、ウルスで駅の方角だけを見て、家の前で犬の影を思い出した。

全部がばらばらだったはずなのに、この老人の一言で急に一本の線に見えた。

「呼ばれてるって、何に」

バリシュは低く聞いた。

老人はしばらく答えなかった。

前の石畳を、午後の光が少しずつずれていく。

「それを先に言葉にしたら、たぶん違うものになる」

その言い方に、バリシュは母エミネを思い出した。

言葉にすると形が変わる。

この家の人たちは、なぜみんな同じような話し方をするのだろうと思った。

だが、老人の次の言葉は母とは少し違っていた。

「ただ、お前はまだ“理由”を探してる。だから落ち着かない」

バリシュは視線を落とした。

石畳の割れ目に、細い草が一本だけ伸びている。

理由。

たしかにそうだった。

父のことを追う理由。
家を出る理由。
駅へ向かう理由。
犬の影を気にする理由。

全部に説明をつけようとしていた。

けれど説明が追いつかないから、何も決められずにいる。

「理由がないと、進んじゃだめですか」

気づけば、そんなことを聞いていた。

老人は今度は少しだけ笑った。

「だめとは言わん」

それから、ベンチの前の空気を見つめるようにして言った。

「だが、人は理由がないと不安になる。
 不安になると、正しい場所にいても落ち着けなくなる」

その言葉が、ハマモニュそのものの説明に聞こえた。

ここは静かな場所だ。
考えるには向いている。
なのに自分は落ち着かない。

それは場所が悪いのではなく、自分の中でまだ何も定まっていないからだ。

そして、その定まらなさの中心には、父と、家と、犬の影がある。

風が、ほとんど音もなく通った。

その瞬間、広場の端にある木の影がわずかに揺れる。

バリシュは無意識にそちらを見た。

何かがいた気がした。

犬のような低い影。

ほんの一瞬。

だが、目を凝らしたときには、そこには誰もいなかった。

Quiet stone street in Hamamönü, Ankara during late afternoon light
A silent street where even small shadows felt impossible to ignore.

観光客の靴が一足、角を曲がって消えただけだった。

「……まただ」

小さく漏れる。

老人がこちらを見る。

「何が」

「分からない。でも……」

そこで言葉が止まる。

犬だと言い切るには曖昧すぎる。
気のせいだと言い切るには、もう回数が多すぎる。

老人はそれ以上聞かなかった。

ただ、バリシュの顔を一度だけ見て、前へ視線を戻した。

「お前、ここに長くいない方がいい」

「どうして」

「静かな場所は、考えるにはいい。
 だが、決める前の人間には深すぎることがある」

その言葉は不思議と脅しには聞こえなかった。

むしろ、今の自分に必要な線引きのように感じられた。

ハマモニュは考える場所だった。
でも答えをくれる場所ではない。

ここで整理はできる。
けれど、ここに留まっている限り、何も始まらない。

バリシュはゆっくり立ち上がった。

膝の裏に、ベンチの木の冷たさが少しだけ残る。

「……ありがとう」

老人は頷きもしなかった。

ただ、午後の光の方を見たまま言った。

「礼を言うほどのことじゃない。
 呼ばれてる顔の人間は、たいてい自分で歩く」

その一言が、胸に残った。

バリシュは広場を出る前に、もう一度だけ振り返る。

老人は動いていなかった。

石と木と影のあいだに、最初からそこにいたもののように座っている。

その姿を見たとき、ハマモニュの静けさの意味が少しだけ分かった気がした。

ここは落ち着くための場所ではなく、落ち着けなさをはっきりさせる場所なのだ。

アンカラは、そういう街なのかもしれない。

人が多く、建物が多く、生活がきちんと並んでいる。
理屈で整理できそうな顔をしているのに、いちばん深いところでは、人を自分の内側へ押し戻してくる。

クズライでは、自分だけが止まっていると知った。
ウルスでは、戻らないことが先だと知った。
家の前では、思い出せない犬の影が残った。

そしてハマモニュで、ようやく分かった。

自分は落ち着かないのではない。

落ち着いてしまったら、もう行けなくなるとどこかで知っているのだ。

通りへ出ると、午後の光は少しだけ傾き始めていた。

どこへ向かうかは、まだ決めていない。

けれど、同じ場所に留まり続けることだけは、もうできない気がした。

そのとき、背後のどこかで、首輪の金具が小さく触れ合うような音がした。

振り返る。

誰もいない。

ただ、石畳の上に、細い影がひとつ横切ったように見えた。

気のせいかもしれない。

でも今はもう、それで済ませるには胸の奥が静かすぎた。

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