夜になると、見えないものの輪郭が濃くなる。
バリシュは、宿に戻ったあとも部屋には入れなかった。
夕方、分かれ道の奥で揺れていた一本の草。
追わなかったから、消えなかったのかもしれない。
その考えが、胸の奥に小さな火のように残っていた。
ギョレメの夜は、昼とは別の町になる。
観光客の声は少なくなり、店の灯りが岩肌に薄く映る。
遠くで犬が吠える声がしたかと思うと、すぐに静けさが戻ってくる。

バリシュは、宿の裏手から続く小さな丘へ上った。
足元の土は昼より冷たく、乾いた草が靴に触れるたび、かすかな音を立てた。
空には星が出ていた。
アンカラで見る空よりも近い気がした。
丘の上からは、ギョレメの町が低く見えた。
宿の明かり。
細い道。
暗く沈んだ奇岩。

昼間は観光地に見えた場所が、夜になると、何かを隠している場所のように見える。
バリシュは、町の外れに目を向けた。
夕方の分かれ道の方角だった。
何も見えない。
それなのに、そこだけ空気が少し重い気がした。
ポケットの中の地図に触れる。
父の地図。
行き先のない線。
折り目の深い紙。
この数日、自分は地図を見ているのではなく、地図に見られているのではないか。
そんな考えが浮かんで、すぐに消えた。
風が吹いた。
その時、丘の下で小さな音がした。
石が転がる音。
バリシュは顔を上げた。
暗がりの中に、何かがいるようには見えなかった。
犬もいない。
人もいない。
ただ、宿へ戻る細い道の途中で、草が一か所だけ揺れていた。
風は、反対から吹いていた。
バリシュの喉が、少し乾いた。
まただ。
そう思った瞬間、遠くで犬が一度だけ吠えた。
短く、低く。
町の犬かもしれない。
どこにでもいる犬かもしれない。
でも、その声は、ただの犬の声として聞こえなかった。
まるで、誰かが夜の中で一度だけ合図を送ったようだった。
バリシュはゆっくり丘を下りた。
宿に戻ればいい。
そう思った。
夜に一人で歩く必要はない。
暗い丘で、見えない気配を追う理由もない。
けれど、彼は止まらなかった。
丘の途中で、足元に白い小さなものが落ちていた。
紙切れのようにも見えた。
石灰の欠片かもしれない。
拾い上げると、それは古い紙ではなかった。
乾いたパンの欠片だった。

誰かが落としたのだろう。
観光客か。
宿の人か。
それだけのことだ。
でも、バリシュは思い出した。
21話の朝、母が持たせた紙袋。
中に入っていたパン。
「朝は冷えるから」とだけ言った母の声。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
自分は何を追っているのだろう。
犬なのか。
父なのか。
それとも、置いてきたはずの家族なのか。
答えは出なかった。
丘の下で、また音がした。
今度は石ではなかった。
乾いた土を踏む、静かな足音。
一歩。
バリシュは立ち止まった。
暗がりの先には、町へ戻る道がある。
その反対側には、夕方に見た分岐の奥へ続く細い道がある。
足音は、そのどちらからでもない場所から聞こえた気がした。
バリシュは息を止めた。
すると、音も止まった。
夜のギョレメは、何も言わない。
けれど、その沈黙の中に、誰かの呼吸のようなものが混ざっていた。
バリシュは、初めて小さく声を出した。
「いるのか」
返事はなかった。
ただ、遠くの丘の斜面で、低い影が少しだけ動いたように見えた。
見えた、と思った瞬間にはもう消えていた。
そこには岩の影と、夜の暗さだけが残っている。
バリシュは追わなかった。
夕方、自分は待つことを選んだ。
今ここで焦って追えば、また同じことを繰り返す気がした。
彼はその場に立ったまま、暗がりを見つめた。
しばらくして、宿の方から誰かが窓を閉める音がした。
普通の音だった。
人が暮らしている音。
その音に、少しだけ安心した。
けれど安心した次の瞬間、丘の下の暗がりから、もう一度だけ足音が聞こえた。
今度は遠ざかっていく音だった。
一歩。
間。
もう一歩。
そして静けさ。
バリシュは、その音が消えた方を見つめた。
そこには、朝になれば何でもない道に見えるはずの細い暗がりがあった。
けれど今は違う。
その暗がりは、ただの道ではなかった。
何かが通ったあとに見えた。
バリシュは、宿へ戻った。
部屋の灯りをつけても、胸の中の夜は消えなかった。
ベッドに座り、父の地図を開く。
紙の上の線は、昼よりも深く見えた。
ギョレメ。
谷。
洞窟。
分かれ道。
そして、名前のない印。
バリシュは、その印に指を置いた。
偶然。
疲れ。
光の加減。
風の音。
反響。
説明できる言葉はいくつもあった。
でも、それらを並べても、心は静かにならなかった。
むしろ、言葉を増やすほど、違和感だけがはっきりしていく。
バリシュは窓の外を見た。
夜の丘は、もう見えない。
ただ、遠くに宿の外灯が一つ揺れていた。
その下で、何かが座っているように見えた。
バリシュは立ち上がった。
目を凝らす。
外灯の下には、何もいない。
けれど、地面には影があった。
細く、低く、犬のような影。

光の向きから考えると、そこに影ができるはずはなかった。
バリシュは窓に手をついた。
息が浅くなる。
その時、外灯が一度だけ小さく揺れた。
影も、同じように揺れた。
そして、消えた。
バリシュはしばらく窓の前から動けなかった。
これは気のせいだ。
そう言おうとした。
けれど、その言葉は、もう自分を守ってくれなかった。
夜の向こうで、見えない何かが、まだこちらを見ている。
そしてバリシュは初めて思った。
明日の朝、自分はこれを否定しようとするだろう。
でも、否定できるだろうか。

