第29話 ギョレメの夜の丘|静けさの中に残る違和感

Barış overlooking the illuminated valleys of Cappadocia at night

夜になると、見えないものの輪郭が濃くなる。

バリシュは、宿に戻ったあとも部屋には入れなかった。

夕方、分かれ道の奥で揺れていた一本の草。
追わなかったから、消えなかったのかもしれない。

その考えが、胸の奥に小さな火のように残っていた。

ギョレメの夜は、昼とは別の町になる。
観光客の声は少なくなり、店の灯りが岩肌に薄く映る。
遠くで犬が吠える声がしたかと思うと、すぐに静けさが戻ってくる。

Illuminated cave hotel in Göreme at night
Warm lights remain awake in the silence of the night.

バリシュは、宿の裏手から続く小さな丘へ上った。

足元の土は昼より冷たく、乾いた草が靴に触れるたび、かすかな音を立てた。

空には星が出ていた。
アンカラで見る空よりも近い気がした。

丘の上からは、ギョレメの町が低く見えた。
宿の明かり。
細い道。
暗く沈んだ奇岩。

A quiet path through the rocks of Cappadocia at night
Some paths reveal themselves only in silence.

昼間は観光地に見えた場所が、夜になると、何かを隠している場所のように見える。

バリシュは、町の外れに目を向けた。
夕方の分かれ道の方角だった。

何も見えない。

それなのに、そこだけ空気が少し重い気がした。

ポケットの中の地図に触れる。

父の地図。
行き先のない線。
折り目の深い紙。

この数日、自分は地図を見ているのではなく、地図に見られているのではないか。

そんな考えが浮かんで、すぐに消えた。

風が吹いた。

その時、丘の下で小さな音がした。

石が転がる音。

バリシュは顔を上げた。

暗がりの中に、何かがいるようには見えなかった。
犬もいない。
人もいない。

ただ、宿へ戻る細い道の途中で、草が一か所だけ揺れていた。

風は、反対から吹いていた。

バリシュの喉が、少し乾いた。

まただ。

そう思った瞬間、遠くで犬が一度だけ吠えた。

短く、低く。

町の犬かもしれない。
どこにでもいる犬かもしれない。

でも、その声は、ただの犬の声として聞こえなかった。

まるで、誰かが夜の中で一度だけ合図を送ったようだった。

バリシュはゆっくり丘を下りた。

宿に戻ればいい。
そう思った。
夜に一人で歩く必要はない。
暗い丘で、見えない気配を追う理由もない。

けれど、彼は止まらなかった。

丘の途中で、足元に白い小さなものが落ちていた。

紙切れのようにも見えた。
石灰の欠片かもしれない。

拾い上げると、それは古い紙ではなかった。
乾いたパンの欠片だった。

Barış examining a small stone on a quiet path in Göreme at night
Sometimes the smallest trace can change the direction of a journey.

誰かが落としたのだろう。
観光客か。
宿の人か。
それだけのことだ。

でも、バリシュは思い出した。

21話の朝、母が持たせた紙袋。
中に入っていたパン。
「朝は冷えるから」とだけ言った母の声。

胸の奥が、少しだけ痛んだ。

自分は何を追っているのだろう。
犬なのか。
父なのか。
それとも、置いてきたはずの家族なのか。

答えは出なかった。

丘の下で、また音がした。

今度は石ではなかった。
乾いた土を踏む、静かな足音。

一歩。

バリシュは立ち止まった。

暗がりの先には、町へ戻る道がある。
その反対側には、夕方に見た分岐の奥へ続く細い道がある。

足音は、そのどちらからでもない場所から聞こえた気がした。

バリシュは息を止めた。

すると、音も止まった。

夜のギョレメは、何も言わない。

けれど、その沈黙の中に、誰かの呼吸のようなものが混ざっていた。

バリシュは、初めて小さく声を出した。

「いるのか」

返事はなかった。

ただ、遠くの丘の斜面で、低い影が少しだけ動いたように見えた。

見えた、と思った瞬間にはもう消えていた。

そこには岩の影と、夜の暗さだけが残っている。

バリシュは追わなかった。

夕方、自分は待つことを選んだ。
今ここで焦って追えば、また同じことを繰り返す気がした。

彼はその場に立ったまま、暗がりを見つめた。

しばらくして、宿の方から誰かが窓を閉める音がした。

普通の音だった。
人が暮らしている音。

その音に、少しだけ安心した。

けれど安心した次の瞬間、丘の下の暗がりから、もう一度だけ足音が聞こえた。

今度は遠ざかっていく音だった。

一歩。
間。
もう一歩。
そして静けさ。

バリシュは、その音が消えた方を見つめた。

そこには、朝になれば何でもない道に見えるはずの細い暗がりがあった。

けれど今は違う。

その暗がりは、ただの道ではなかった。

何かが通ったあとに見えた。

バリシュは、宿へ戻った。

部屋の灯りをつけても、胸の中の夜は消えなかった。

ベッドに座り、父の地図を開く。

紙の上の線は、昼よりも深く見えた。

ギョレメ。
谷。
洞窟。
分かれ道。
そして、名前のない印。

バリシュは、その印に指を置いた。

偶然。
疲れ。
光の加減。
風の音。
反響。

説明できる言葉はいくつもあった。

でも、それらを並べても、心は静かにならなかった。

むしろ、言葉を増やすほど、違和感だけがはっきりしていく。

バリシュは窓の外を見た。

夜の丘は、もう見えない。

ただ、遠くに宿の外灯が一つ揺れていた。

その下で、何かが座っているように見えた。

バリシュは立ち上がった。

目を凝らす。

外灯の下には、何もいない。

けれど、地面には影があった。

細く、低く、犬のような影。

Barış looking out from a cave room in Cappadocia at night
Some questions remain outside, waiting in the dark.

光の向きから考えると、そこに影ができるはずはなかった。

バリシュは窓に手をついた。

息が浅くなる。

その時、外灯が一度だけ小さく揺れた。

影も、同じように揺れた。

そして、消えた。

バリシュはしばらく窓の前から動けなかった。

これは気のせいだ。

そう言おうとした。

けれど、その言葉は、もう自分を守ってくれなかった。

夜の向こうで、見えない何かが、まだこちらを見ている。

そしてバリシュは初めて思った。

明日の朝、自分はこれを否定しようとするだろう。

でも、否定できるだろうか。

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