第28話 ギョレメの分岐する細道|追うか戻るかを選ぶ夕暮れ

Barış standing at a forked path between Cappadocian rock formations at dusk
Barış standing at a crossroads in Cappadocia at dusk
Between the familiar road and the unknown path.

道は、二つに分かれていた。
一つは、町へ戻る道だった。
宿の灯りがあり、チャイの匂いがあり、人の声がある方へ続いている。
もう一つは、奇岩のあいだへ深く入っていく道だった。
夕暮れの影が沈み、風の音だけが細く流れている方へ続いていた。

バリシュは、その分かれ道の前に立っていた。

犬のような影は、さっき確かにその奥へ消えた。

見間違いだったと言い切るには、身体が覚えている。
足元の土が崩れた感触。
息を止めた瞬間の胸の痛さ。
そして、影が岩の向こうへ消えた時の、あの静かな確信。

あれは消えたのではなく、残っていたのかもしれない。

その考えは、まだバリシュの中にあった。

ギョレメの夕方は、急に冷える。
昼の熱を吸い込んでいた岩が、今度はゆっくり冷たさを返してくる。
乾いた草が斜面で擦れ合い、遠くでは観光客の声が少しずつ町の灯りへ戻っていく。

バリシュは、町へ戻る道を見た。

そちらへ行けば、何も起きない。
宿に帰り、夕食を食べ、ベッドに横になり、今日見たものを疲れのせいにできる。
明日の朝には、また少しだけ普通に戻れるかもしれない。

それは悪い選択ではなかった。
むしろ、理性的な選択だった。

けれど、もう一つの道から目を離すことができなかった。

奇岩のあいだへ続く細道は、道というより、岩の裂け目に近かった。
両側の壁は高く、奥へ行くほど光が少なくなる。
足元には小さな石が転がり、踏めば乾いた音を立てそうだった。

A narrow stone opening in the rock formations of Cappadocia
Some paths reveal themselves only when you slow down.

その奥に何があるのかは分からない。
犬がいるのか。
影があるのか。
それとも何もないのか。

何もなかった時、自分は何を失うのだろう。

バリシュは、その問いに少しだけ怖くなった。

何かがいることより、何もいないことの方が怖い。
何かを見たのに、誰にも信じてもらえないこと。
自分でさえ、それを信じられなくなること。

その怖さは、父のことに似ていた。

父がいなかったことは事実だった。
けれど、父が何を思っていたのか、何を残したのか、どこへ向かっていたのかは分からない。

分からないまま年月だけが過ぎると、人はその空白を、自分のせいにしたくなる。

あの時、自分が何か気づいていれば。
もっと聞いていれば。
止められていれば。

そんな意味のない問いが、何度も心の中で形を変えてきた。

バリシュはポケットの中の地図に触れた。
紙の角が指に当たる。

父の地図。
行き先の名が書かれていない線。
何度も折られた跡。

A worn map held in Barış's hand in Cappadocia
Some journeys begin long before the first step.

これは、自分をどこかへ連れていくためのものなのか。
それとも、自分が避けてきた場所へ戻すためのものなのか。

風が吹いた。

奇岩の奥の道から、乾いた土の匂いが流れてきた。
少しだけ、洞窟の入口に立った時の冷たさに似ていた。

バリシュは一歩、奥の道へ足を出した。

その瞬間、背後から人の声がした。

「そっちは暗くなるよ」

振り返ると、年配の女性が小さな袋を手に持って立っていた。
路地で会った女性ではなかったが、同じように静かな目をしていた。
彼女はバリシュを責めるでもなく、ただ夕暮れの奥を見ていた。

「道、ありますか」

バリシュが聞くと、女性は少しだけ首を傾けた。

「道はあるよ。でも、帰る道を覚えていない人には、道じゃなくなる」

その言葉は、穏やかだった。
けれど、バリシュの足元に小さな重さを置いた。

「犬を見ませんでしたか」

彼女はすぐには答えなかった。
風が二人の間を通り、スカーフの端を少し揺らした。

「犬は、自分で帰れる」

「……人は?」

そう聞いたのは、自分でも意外だった。

女性はバリシュを見た。

「人は、帰る場所を思い出さないと帰れない」

それだけ言って、彼女は町の方へゆっくり歩いていった。

Barış speaking with an elderly woman in Cappadocia at dusk
Some answers arrive as quietly as the wind.

バリシュは、その背中を見つめた。

帰る場所。

その言葉は、この数日ずっと自分の後ろについてきていた。
アンカラ。
母。
デニズ。
父の引き出し。
話されなかったこと。
聞かなかったこと。

それらすべてから離れるために旅に出たはずなのに、カッパドキアに来てから、何も離れていないことを思い知らされている。
むしろ、近づいている。

バリシュはもう一度、奥へ続く道を見た。

そこには誰もいない。
犬もいない。
影もない。
けれど、道だけがあった。

それが一番怖かった。

何かが見えるなら、まだ理由にできる。
犬がいたから追った。
声がしたから進んだ。
影が動いたから確かめた。

でも今は違う。

何も見えないのに、進むかどうかを自分で決めなければならない。

バリシュは、そのことに気づいた。

これは、犬を追うかどうかではない。
自分が、分からないものの方へ一歩進めるかどうかだった。

町へ戻る道から、食器の触れ合う音がした。
誰かが笑っている。
宿の灯りが、岩の壁に淡く映っていた。

あちらへ戻れば、普通の夜がある。
奥へ進めば、何があるか分からない。

バリシュは、しばらく何もせず立っていた。

その間にも、空は少しずつ暗くなっていく。
奇岩の影はさらに濃くなり、道の形を曖昧にしていった。

追うなら、今しかない。

そう思った。

けれど、同時に別の声もあった。

まだだ。

無理に追えば、何かを壊してしまう気がした。

あの犬のような存在は、近づけば消える。
こちらが焦れば、距離だけが遠くなる。

バリシュは目を閉じた。
風の音を聞いた。
遠くの町の音を聞いた。
自分の呼吸を聞いた。

そして、目を開けた。

彼は奥へは進まなかった。
けれど、町へも戻らなかった。

分かれ道の真ん中に、ただ立ち続けた。

それは何もしないことではなかった。
逃げることでもなかった。

初めて、自分の中で何かを待つ選択をした。

その時、奥の道の暗がりで、小さな音がした。

石が一つ、転がる音。

バリシュは顔を上げた。

影は見えない。
犬も見えない。

ただ、奥の道の先に、風では動かないはずの草が、一本だけ揺れていた。

そしてその瞬間、バリシュは分かった。

追わなかったから、消えなかったのかもしれない。

暗がりの向こうで、何かがまだ待っている。

A narrow hidden path between rock walls in Cappadocia at dusk
Not every road asks to be followed.
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