第27話 ギョレメの夕暮れと奇岩の影|消えた犬が残したもの

Barış looking across Göreme at sunset as a dog-shaped shadow stretches along a quiet path.

影は、光があるから生まれる。
そのことを、バリシュは夕暮れのギョレメで初めて意識した。

昼間には白く乾いて見えた岩肌が、夕方になると少しずつ色を変えていく。
薄い金色。
赤みを帯びた茶色。
そして、光が届かなくなった場所から、灰色の影がゆっくり伸びてくる。

バリシュは、昨日と同じ展望台から少し離れた場所に立っていた。

来るつもりはなかった。
けれど、宿に戻っても落ち着かなかった。

朝見た倒れた草の向きが、ずっと頭から離れなかった。
風とは反対に倒れていた草。
そこに、確かに何かの重さが残っていたように見えた。

考えすぎだ。

そう思うたびに、あの場所の静けさだけが濃くなっていく。

夕方のギョレメは、朝とは違う顔をしていた。
観光客の声はまだある。
けれど、昼の明るさが少しずつ引いていくにつれて、人の声も町の輪郭も、岩の影の中へ静かに沈んでいくようだった。

遠くで、誰かが写真を撮っている。
シャッターの音が、風に混じって小さく聞こえた。

バリシュは、奇岩の並ぶ斜面を見つめた。

岩の影は、思っていたよりも速く伸びる。
少し前まで何もなかった場所に、長い影ができている。
細い道を横切り、乾いた草を覆い、石の上を静かに渡っていく。

その中に、一つだけ違う影があった。

岩の影にしては、低かった。
草の影にしては、形がまとまりすぎていた。

犬のような影。

バリシュは息を止めた。

A traveler watching a long shadow across a Cappadocia valley at sunset
Some shadows do not disappear when the light fades.

影は動かなかった。
けれど、そこにあるだけで、まわりの風景の意味を少し変えていた。

岩も、道も、草も、すべてがその影を中心にして静かになっているようだった。

バリシュは目を細めた。

本体は見えない。
影だけがある。

そのことに気づいた瞬間、背中に冷たいものが走った。

どこかに犬がいるなら、影があるのは当然だ。
でも、どこを見ても、その影を落としているものが見つからなかった。

岩の陰。
細い道。
斜面の下。
乾いた草の向こう。
どこにもいない。

それなのに、影だけがそこに残っている。

バリシュは、一歩だけ前に出た。
足元の土が小さく崩れた。

その音に反応したように、影がわずかに揺れた。

風のせいかもしれない。
日が傾いたせいかもしれない。

けれど、その揺れ方は、風ではなかった。

まるで、眠っていたものが目を開けたようだった。

「また……」

声は、口の中で消えた。

また同じことが起きている。
足音。
視線。
遠くの犬。
同じ場所。
そして今、影。

少しずつ近づいているのか。
それとも、自分が少しずつ見えるようになっているのか。

分からなかった。

ただ、ひとつだけ確かだった。
この土地では、見えないものの方が、見えているものより重い。

バリシュは、ポケットの中の地図に触れた。
紙の感触が、指先に戻る。

父の地図。
何度も折られ、行き先の名だけが書かれていなかった地図。

あの地図は、どこかへ行くためのものではなく、どこかへ戻るためのものなのかもしれない。

朝、自分の中をよぎった考えが、夕暮れの中でまた静かに浮かんだ。

戻る。

どこへ。
アンカラへ。
父の記憶へ。
母が話さなかった時間へ。
それとも、自分が見ないようにしてきた場所へ。

バリシュは、影から目を離せなかった。

その時、背後から小さな声がした。

A traveler and a young local on a Cappadocia hillside at sunset
A brief meeting beneath the fading light.

「そこ、暗くなると足元が見えにくいよ」

振り返ると、昨日の宿の若い男が坂道に立っていた。
手には空のトレーを持っている。近くの家に何かを届けた帰りらしかった。

「大丈夫です」

バリシュは答えた。

男は斜面の方を見た。
その視線は、影の近くを通ったはずだった。
けれど、彼は何も言わなかった。

バリシュは思わず聞いた。

「犬、見えますか」

男は少し目を細めた。

「犬?」

「そこに……」

バリシュは影の方を指した。

男はしばらく見ていた。
それから、首をかしげた。

「岩の影じゃないですか」

その言葉は普通だった。
とても普通だった。
だからこそ、バリシュの中で何かが静かに沈んだ。

「そうですね」

そう答えるしかなかった。

男は少し笑って、坂を下りていった。

「この時間の岩は、何にでも見えますよ」

その言葉が、風の中に残った。

何にでも見える。
でも、バリシュには一つにしか見えなかった。

犬の影。
いや、犬の影に見えるもの。

その違いが、もう分からなくなっていた。

太陽がさらに低くなる。
影は長くなり、他の岩の影と少しずつ重なり始めた。

このままだと消える。
バリシュはそう思った。

影が消えれば、また自分は何もなかったと思うしかなくなる。

足音も、視線も、遠くの犬も、同じ場所も、全部を疲れや偶然のせいにできてしまう。

それが怖かった。

怖いのは、何かがいることではなかった。
何かがいたのに、自分がそれを信じられなくなることだった。

バリシュは斜面を少し下りた。
影に近づく。

一歩。
また一歩。

影は動かない。

近づけば近づくほど、その輪郭は曖昧になっていく。

遠くでは確かに犬のように見えたのに、近づくとただの暗がりにも見える。

それでも、胸の奥の感覚だけは消えなかった。

ここにいた。
何かが、ここにいた。

バリシュは影のすぐ手前で立ち止まった。

そこには、乾いた土と、小さな石と、倒れた草があった。
犬はいない。
足跡もはっきりしない。
けれど、草の一部だけが押しつぶされたように低くなっていた。

Flattened grass in Cappadocia at sunset
Something had been here, and the silence remained.

まるで、何かがそこに座っていたように。

バリシュはしゃがみ込んだ。
触れようとして、手を止める。

触れたら、消えてしまう気がした。

その時だった。
斜面の上の方で、何かが動いた。

バリシュは顔を上げた。

夕暮れの光の中、奇岩の細い影が長く伸びている。
その影の端を、低い形が一瞬だけ横切った。

今度は、影だけではなかった。
形もあった。
けれど、それはすぐに岩の向こうへ消えた。

バリシュは立ち上がった。

追える。
そう思った。

今なら、追える。

けれど、足はすぐには動かなかった。

追えば、見えるかもしれない。
見えれば、もう戻れないかもしれない。

風が吹いた。
斜面の草がざわめき、岩の影がさらに長くなった。

バリシュは、消えた方を見つめた。

その先には、二つに分かれる細い道があった。
一つは町へ戻る道。
もう一つは、奇岩のあいだへ深く入っていく道。

Rock shadows along a quiet path in Cappadocia at dusk
Where the light fades, the path grows quieter.

犬のような影が消えたのは、後者だった。

バリシュは動かなかった。

でも、心のどこかでは、もう分かっていた。

次に同じことが起きたら、自分は立ち止まれない。

夕暮れが、岩の間に深く沈んでいく。

影は、ただそこにあるのではなかった。
道を選ばせるために、そこに残っているように見えた。

あれは消えたのではなく、“残っていた”のかもしれない

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