第26話 ギョレメ展望台に戻った犬|昨日と同じ場所に残る違和感

Flattened grass on a hillside overlooking Göreme in Cappadocia

昨日、あの影が消えた場所を、頭では忘れようとしていた。
それでも、足はそこから離れてくれなかった。

同じ場所に戻るつもりはなかった。
バリシュはそう思いながら、また坂道を上っていた。

昨日、遠くの犬のような影を見た場所。
谷を見下ろす、乾いた草の斜面。
ギョレメの町が低く広がり、岩の道がいくつも交差して見える場所。

来る理由はなかった。
いや、理由ならいくつも作れた。

景色を見るため。
朝の空気を吸うため。
昨日のことが気になったから。

でも、そのどれも本当の理由ではない気がした。

足が先に、ここを覚えていた。

A quiet path through the rocky landscape of Göreme in Cappadocia
The road seemed empty, yet something remained.

朝の光は、昨日より少し白かった。
岩肌は乾き、谷の底には薄い影が残っている。
風が草を揺らすたび、細い音が足元を抜けていった。

バリシュは、昨日犬の影が消えた曲がり角を見た。

何もいない。

そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。

やはり気のせいだったのかもしれない。
昨日の影も、疲れた目が作ったものだったのかもしれない。

その方が楽だった。

でも、安心は長く続かなかった。

少し離れた岩の上に、黒とも茶色とも言えないものがあった。
昨日と、ほとんど同じ場所だった。

A traveler looking toward a distant figure on a hillside above Göreme
Some distances feel shorter than they should.

バリシュは動きを止めた。

犬のような影は、こちらに背を向けて座っているように見えた。
顔は見えない。
輪郭もはっきりしない。

それでも、あの低い姿勢と、風に混ざらない静けさだけは昨日と同じだった。

昨日は谷の端にいた。
最後は岩の向こうへ消えた。

それなのに、今朝また、ここにいる。

偶然。

その言葉が、頭に浮かんだ。

けれど、昨日よりも弱かった。

バリシュは一歩近づいた。

犬のような影は動かない。

もう一歩。
まだ動かない。

距離は遠い。
けれど、昨日より遠くは感じなかった。

それが不思議だった。

近づいたからではない。
むしろ身体の距離はまだ十分にある。

でも、昨日よりもこちら側にいるように感じる。
まるで、場所ではなく、気持ちの距離だけが少し縮まったようだった。

バリシュは立ち止まった。

「お前は……」

声に出しかけて、やめた。

犬に話しかけるほど近くない。
それに、相手が本当に犬なのかも分からない。

その時、影がゆっくり顔を上げた。

顔は見えない。
目も見えない。

けれど、バリシュは確かに気づかれたと思った。

昨日と同じ視線。
いや、昨日より静かだった。

怖がらせるためでも、呼ぶためでもない。
ただ、そこにいることを知らせるだけの視線だった。

バリシュは、自分の手がポケットの地図に触れていることに気づいた。
まただ。

何かが起こるたび、彼の手はそこへ行く。

父の地図。
名前のない印。
行き先の書かれていない線。

あの地図は、目的地を示しているのではなく、戻る場所を示しているのではないか。

そんな考えが、一瞬だけ胸をかすめた。

戻る場所。

その言葉が、母の顔を連れてきた。
アンカラの家。
閉じた扉。
言葉を飲み込む母。
怒っているのではなく、傷ついていたデニズ。

自分は旅に出た。
けれど、逃げたのかもしれない。

そしてこの犬のような影は、前へ進ませているのではなく、戻るべきものを見せているのかもしれない。

バリシュは首を振った。

考えすぎだ。
そう思った。

でも、そう思うたびに、この土地では何かが一つずつ形を持ってしまう。

坂の下から、観光客の声が聞こえてきた。

二人連れの若い旅行者が、カメラを持って上ってくる。
彼らはバリシュの横を通り過ぎ、同じ谷の方へレンズを向けた。

Travelers photographing a hillside in Göreme while an unnoticed figure remains in view
Not everyone was looking at the same thing.

「きれいですね」

片方が英語でそう言った。

もう片方は笑いながら、岩の形を指差した。

バリシュは、思わず犬の影の方を見た。
まだいる。

旅行者たちは、その近くを見ているはずだった。
同じ方向にカメラを向けている。
けれど、彼らは何も反応しなかった。

見えていないのか。
それとも、見えていても気にしていないだけなのか。

バリシュは、そのことに強い違和感を覚えた。

あれほど目立つのに。
少なくとも、自分には目を離せないほどはっきり感じられるのに。

旅行者の一人がシャッターを切った。
乾いた音が風に混ざる。

その瞬間、犬のような影が立ち上がった。
バリシュだけが、それに気づいた。

影はゆっくりと岩の陰へ向かった。
急がない。
逃げない。
けれど、見られることを避けているようでもあった。

バリシュは小さく息を吸った。

旅行者たちはまだ景色を撮っていた。
誰も、犬の方を見ていない。

バリシュは一歩、前に出た。

すると影は、昨日と同じように一度だけ立ち止まった。

振り返ったのかどうかは分からない。
でも、バリシュにはそう見えた。

そして次の瞬間、岩の向こうへ消えた。
昨日と同じ場所で。
昨日と同じように。

違うのは、バリシュがもうそれを偶然とは思えなくなっていることだった。

彼はその場にしばらく立っていた。

旅行者たちの笑い声が、遠くから聞こえる。
町は今日も普通に動いている。

宿では朝食の皿が並び、誰かがチャイを飲み、誰かが写真を撮り、誰かが道に迷っている。

その普通の時間の中で、バリシュだけが別の時計の中にいるようだった。

犬の影が消えた岩の先には、細い道が続いていた。
昨日も見た道。
遠くの谷へ下りていく道。

Quiet road leading into a valley in Cappadocia
A road that waits without asking where it leads.

バリシュはそこへ向かわなかった。

まだ早い。

そう思った。

それは恐れからではなかった。
少なくとも、昨日とは違っていた。

今の自分は、追えないのではない。

追う前に、確かめなければならないことがある。

なぜ、同じ場所なのか。
なぜ、自分だけが気づくのか。
なぜ、あの影は距離を変えないのか。

答えはない。
けれど、問いは昨日よりはっきりしていた。

バリシュは、ゆっくり坂を下りはじめた。

その途中で、ふと振り返った。

岩の上には、もう何もいない。
ただ、犬の影が座っていた場所に、草だけが倒れていた。

風とは反対の向きに。

バリシュは足を止めた。

風が吹いた。
他の草は揺れた。
けれど、その一か所だけは、しばらく動かなかった。

まるで、そこに何かの重さが、まだ残っているようだった。

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