地下へ降りる階段は、昨日よりも狭く見えた。
バリシュは、デリンクユ地下都市の入口に立っていた。外の空はまだ明るい。カッパドキアの乾いた風も、遠くの人の声も、地上にはちゃんと残っている。
けれど、足元に開いた暗がりだけが、別の時間へ続いているように見えた。
昨日、ゼルベの高台で犬は消えた。夕陽の中に残った問いは、夜になっても消えなかった。
あの犬は何だ。
そして、なぜ父の記憶に近づくたび、自分は地下へ引き戻されるのか。
バリシュは手すりに触れた。冷たい金属の感触が、指先から胸の奥まで静かに伝わった。観光客の足音が後ろで重なり、すぐに別の方向へ流れていく。
誰も、自分が何かに呼ばれてここへ戻ってきたとは思わない。
それが少しだけ救いだった。

階段を一段降りるたび、光は薄くなった。石の壁が近づき、空気が湿り、音が丸くなる。地下都市の通路には、地上とは違う沈黙があった。
静かなのに、空っぽではない。
誰かがかつてここで息をし、火を使い、祈り、隠れ、待っていた。その時間が、石の奥にまだ沈んでいるようだった。
バリシュは足を止めた。
父の古いノートにあった印。ゼルベの床に見えた線。そして、犬が消える前に向いていた方角。
それらは、はっきり繋がっているわけではない。
けれど、完全に離れているとも思えなかった。
バリシュはポケットから小さな紙を取り出した。父のノートを写したものだった。線は歪んでいる。地図にも、文字にも見える。

意味は分からない。
ただ、その形を見ていると、胸の奥が少し重くなった。
「ここに来たことがあるのか」
声に出したつもりはなかった。でも、言葉は石の通路に小さく落ちた。
父に聞いたのか。
自分に聞いたのか。
それとも、あの犬に聞いたのか。
分からなかった。
通路の奥から、冷たい風が流れてきた。
地下にいるのに、風がある。
そのことが妙に気になった。
バリシュは奥へ進んだ。壁には小さなくぼみがあり、かつて灯りを置いた場所のように見えた。暗がりの中で、石の表面だけがわずかに白く浮かんでいる。
その時、足音がした。
自分のものではなかった。
バリシュは振り返った。
誰もいない。

観光客の声は、もう遠い。ガイドの説明も届かない。通路には、自分の呼吸と、どこかで落ちる水の音だけがあった。
気のせいだ。
そう思った。
けれど、その言葉は以前ほど強くなかった。
気のせいで片づけられないものが、この数日で多くなりすぎていた。
バリシュはもう一度、紙を見た。
そして壁の一部に目が止まった。
小さな傷。
ただの削れ跡かもしれない。
けれど、父のノートの線と、同じ角度で曲がっているように見えた。
バリシュは近づいた。
指先で触れる。
石は冷たかった。
その傷は古いものだった。昨日今日ついたものではない。人の手によるものか、偶然の亀裂か、それすら分からない。
でも、バリシュの中では、もうただの傷ではなかった。
父は、ここを見たのだろうか。
ここで何かを考えたのだろうか。
それとも、自分は父の影を追っているつもりで、存在しない意味を拾い集めているだけなのだろうか。
胸の奥で、答えのない問いが重なった。
その時だった。
通路の先で、かすかな音がした。
爪が石を踏むような、短い音。
バリシュは息を止めた。
音は一度だけだった。
それでも、分かった。
人の足音ではない。
風でも、水でもない。
彼はゆっくり顔を上げた。
暗い通路の奥には何も見えない。
けれど、そこに何かがいる気配だけがあった。
バリシュは動けなかった。
怖い。
でも、昨日とは違った。
怖さの中に、たしかめたいという感情が混じっていた。
あの犬は何だ。
その問いは、まだ残っている。
でも今は、もう一つの問いが静かに重なっていた。
父は、ここで何を見たのか。

バリシュは紙を握りしめた。
地下の暗がりが、少しだけ深くなったように見えた。
そして通路の奥で、もう一度だけ、石を踏む音がした。

