触れるまでの距離は、ほんの数センチだった。
それなのに、その数センチが、バリシュには信じられないほど遠く感じられた。
デリンクユ地下都市の奥は、地上の時間から切り離されたように静かだった。天井は低く、壁は粗く、削られた石の表面には長い年月の乾いた冷たさが残っている。細い通路の先から届く灯りは弱く、犬の白い毛を、完全な白ではなく、灰色に近い色に沈ませていた。
犬は逃げなかった。
吠えもしない。
近づきもしない。
ただ、そこにいた。

バリシュの手は、まだ宙に浮いたままだった。
指先が少し震えている。自分でそれを止めようとしても、止まらなかった。寒さのせいではない。地下の空気は確かに冷たかったが、震えているのは身体ではなく、もっと深いところだった。
犬の背後には、三本の短い傷がある。
第50話で見た、あの印。
自然に削れた跡には見えなかった。観光客の落書きとも違う。誰かが、何かを残すために、短く、迷いなく、石に触れたような傷だった。
バリシュはポケットの中の破片を思い出した。
小さな破片。
似た線。
欠けた文字。
……afa。
そして、どこかで見た、かすれた数字。
/04。
それらはまだ答えではない。
けれど、答えではないものほど、バリシュの中に深く残っていた。
地下都市の空気は動かない。けれど、まったく止まっているわけでもなかった。どこか遠くで、観光客の足音がかすかに響いている。石の通路を曲がるたびに音は形を変え、誰かが近づいているのか、遠ざかっているのか分からなくなる。
ここでは、音さえも迷う。
バリシュは犬を見た。
犬も、見ていた。
その目には、責めるものがなかった。
待っているようでもない。
助けを求めているようでもない。
ただ、バリシュがこの場所まで来たことを、最初から知っていたような静けさがあった。
「……何なんだ、お前は」
声は小さく、石の壁に触れてすぐ消えた。
犬は動かない。
答えない。
その沈黙が、かえってバリシュの胸を締めつけた。
今まで、彼はずっと答えを探していた。父が何をした人なのか。なぜ母は話さないのか。地図は何を示していたのか。なぜ父の痕跡は、いつも完全な形ではなく、欠けたまま残っているのか。
でも今、目の前にいる犬に触れることは、父の答えに近づくことではない気がした。
もっと怖いものだった。
答えが出ないまま、それでも受け入れること。
それが、怖かった。
バリシュは、手をもう少し近づけた。
犬の毛が、指先の空気を変えた気がした。
まだ触れていない。

けれど、そこに生き物の温度があることだけは分かった。石の壁とは違う。古い地図とも、破片とも、乾いた文字とも違う。そこには、今、息をしているものがあった。
そのことが、バリシュを戸惑わせた。
父の謎は、いつも過去の中にあった。
引き出しの奥。
古い封筒。
地図の折り目。
靴底の土。
石に残った傷。
どれも、触れた瞬間に過去へ引き戻されるものだった。
けれど、この犬だけは違った。
父の痕跡のそばにいるのに、過去ではなかった。
今、ここにいる。
息をしている。
こちらを見ている。

バリシュは、自分の中で何かがずれる音を聞いた気がした。
父を探してここまで来た。
でも、父だけを見ていたら、この犬には触れられない。
犬に触れるには、父の影を一度、影のまま置いておく必要がある。
それは、バリシュにとって初めてのことだった。
今までは、何かを見つけるたびに意味を探した。
意味を探さなければ、立っていられなかった。
だが、この犬は意味を求める前に、ただ存在していた。
意味より先に、存在がある。
その単純さが、地下都市の暗闇の中では、あまりにも強かった。
バリシュは息を吸った。
石の匂いがした。
乾いた土。
古い空気。
人が隠れ、祈り、待ち、通り過ぎた場所の匂い。
ここは、外から見れば地下都市だった。
観光地であり、歴史の場所であり、カッパドキアの有名な遺跡のひとつだった。
けれど今のバリシュにとって、ここは父の過去と、自分の現在が初めて同じ場所に立った地点だった。
犬の耳が、ほんのわずかに動いた。
バリシュは身を固くした。
犬はまだ動かない。
ただ、バリシュの指先の方へ、ほんの少しだけ顔を下げた。
触れろ、と言っているようには見えなかった。
触れてもいい、と言っているようにも見えなかった。
ただ、逃げない。
それだけだった。
その「逃げない」が、バリシュには重かった。
母は話さなかった。
父は残さなかった。
デニズは怒った。
エリフの名前は、まだ遠い場所にある。
誰も、それぞれの場所から簡単には動かなかった。
でもこの犬は、逃げなかった。
それは答えではない。
優しさでもない。
けれど、バリシュが今まで出会ってきたどの沈黙よりも、まっすぐだった。
「俺は……」
言いかけて、やめた。
何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。
怖い。
知りたい。
触れたい。
でも、触れたら戻れない気がする。
その全部が、同じ場所にあった。
バリシュの手は、さらに近づいた。
犬の毛先が、指の皮膚に届きそうになる。
その瞬間、地下の奥で小さな音がした。
石に砂が落ちるような、ほとんど聞こえない音だった。
バリシュは反射的に顔を上げた。
通路の奥には誰もいない。
灯りが揺れたわけでもない。
犬も振り返らなかった。
ただ、三本の傷の下にある小さなくぼみだけが、さっきよりはっきり見えた。

そこに、何かがあるように見えた。
あるいは、そう見たいだけなのかもしれない。
バリシュは指先を止めた。
犬まで、あと少し。
触れられる。
でも、まだ触れなかった。

その距離の中に、父の名前があった。
母の沈黙があった。
デニズの怒りがあった。
古い地図の線があった。
そして、これから自分が選ばなければならないものがあった。
犬は、バリシュの手を見ていなかった。
バリシュの目を見ていた。
まるで、触れるかどうかではなく、その前に何を認めるのかを見ているようだった。
バリシュは、ゆっくり息を吐いた。
指先はまだ宙にある。
ほんの数センチ。
けれど、その距離は犬との距離ではなかった。
まだ知らない父との距離だった。

