第33話 逃げない存在|カッパドキア・ラブバレーで深まる犬の謎

Barış stands at a fork in Cappadocia as Noah waits beside a narrow hidden path.

逃げる気配がなかった。

それが、バリシュをいちばん不安にさせた。

ラブバレーの奥で、犬は背を向けたまま立っていた。去っていくなら分かる。人を避けるなら分かる。吠えるのも、身を低くするのも、動物として自然だった。

けれど、その犬はどれもしなかった。

まるで、逃げる必要など最初からないと知っているようだった。

朝の光は高くなり、岩の柱の影が少しずつ短くなっていた。乾いた土の匂いに、草の青い匂いがわずかに混じる。遠くで観光客の声がしたが、ここまでは届かなかった。

バリシュは足元の石を見た。

さっき転がった小石は、道の端で止まっていた。

あれだけは普通だった。

動けば転がる。

坂があれば落ちる。

でも、あの犬との距離だけは普通ではなかった。

近づいても、遠ざかっても、変わらない。

そして今、犬は逃げない。

バリシュはゆっくり一歩を踏み出した。

犬は動かない。

もう一歩。

まだ動かない。

三歩目で、犬の耳だけが少し動いた。

それだけだった。

その小さな動きが、逆に怖かった。

見えていないわけではない。

聞こえていないわけでもない。

分かっていて、逃げない。

バリシュは息を浅くした。

「何なんだ……」

声は谷の空気に吸われた。

犬は振り返らなかった。

ただ、そこにいた。

岩と岩の間に、影のように立っていた。

Quiet road between rock formations in Cappadocia
A quiet road bends gently into the unknown.

バリシュは、子どもの頃に見た野良犬を思い出した。アンカラの裏通りで、パンを持った手に近づいてきた犬。近づきすぎると逃げた。こちらが追えば、もっと遠くへ行った。

犬は、人間との距離を知っている。

近すぎれば危ない。

遠すぎれば届かない。

だから犬は、距離で生きている。

でも、この犬は違った。

距離を恐れていない。

人間を恐れていない。

もしかすると、自分の方が距離を測られているのかもしれなかった。

近づけるか。

止まるか。

戻るか。

バリシュは拳を軽く握った。

父も、こんなふうに何かの前で立ち止まったのだろうか。

進むことも、戻ることもできずに。

その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が少し冷えた。

父をここに結びつけたくなかった。

でも、カッパドキアに来てから、父の不在はただの過去ではなくなっていた。

岩の隙間に、足音の後ろに、沈黙の中に、父の影が混じるようになっていた。

バリシュは犬を見た。

犬はまだ背を向けている。

けれど、完全に無関心ではなかった。

尾がわずかに揺れた。

風のせいかもしれない。

そう思おうとした。

でも、もう何でも風のせいにはできなかった。

Quiet crossroads path in a Cappadocia valley
Several paths remain open beneath a silent sky.

少し先に、道が二つに分かれていた。

右は谷の奥へ続く細い道。

左は岩の間を抜けて、少し高い場所へ上がる道。

犬はその分岐の手前に立っていた。

どちらへ行くかを示しているのか。

それとも、ただそこにいるだけなのか。

バリシュは判断できなかった。

判断できないことが、彼をさらに前へ押した。

一歩。

また一歩。

犬との距離は、今度こそ少し縮まったように見えた。

けれど、犬は逃げなかった。

振り返りもしなかった。

ただ、バリシュが来るのを知っていたように、静かに待っていた。

その時、岩の向こうから低い声がした。


A traveler and an old man watch a distant dog in a Cappadocia valley
Neither of them spoke. Both understood.

「その犬、あんたのか?」

バリシュは驚いて振り返った。

中年の男が、古い布袋を肩にかけて立っていた。地元の人らしい。顔は日に焼け、目元に深い皺があった。

「いいえ」

バリシュは答えた。

「知りません」

男は犬を見た。

「そうか」

それだけ言って、しばらく黙った。

バリシュは男の横顔を見た。

「見えるんですか?」

言ってから、自分でも変な質問だと思った。

男は少しだけ目を細めた。

「見えるさ」

そして、短く付け加えた。

「でも、ああいう犬は、誰にでもついていくわけじゃない」

バリシュの喉が止まった。

「どういう意味ですか?」

男は肩をすくめた。

「意味なんか知らない。ただ、昔からこのあたりにはいる。人を見る犬だ」

「人を見る?」

「人が犬を見るんじゃない。犬が人を見る」

男はそれ以上話さなかった。

布袋を肩にかけ直し、岩の間の道をゆっくり歩いていった。

バリシュはその背中を見送った。

人を見る犬。

その言葉は、不自然なほど静かに胸に残った。

犬が人を見る。

選ぶのではない。

試すのでもない。

ただ、見る。

バリシュは自分の手を見た。

なぜか、手のひらに薄く汗をかいていた。

怖い。

そう思った。

でも、その怖さは昨日までとは違っていた。

逃げたい怖さではない。

見られている怖さだった。

自分の中にあるものまで、黙って見られているような気がした。

Traveler and dog standing at a narrow crossroads in Cappadocia
One path was familiar. The other quietly waited.

犬はようやく、ゆっくりと振り返った。

遠くの顔。

濃い影の中の目。

その目は、バリシュを責めていなかった。

呼んでもいなかった。

ただ、そこに立つことを許しているようだった。

バリシュはもう一歩進んだ。

犬は逃げなかった。

その瞬間、胸の奥に小さな変化が起きた。

怖さの中に、ほんの少しだけ別の感情が混じった。

知りたい。

そう思った。

なぜ逃げないのか。

なぜ自分の前に現れるのか。

なぜ、父の記憶が近づくたびに、この犬もまた近づいてくるのか。

答えはなかった。

ただ、犬は右の細い道へ一歩だけ進んだ。

そして止まった。

振り返る。

バリシュを見る。

また歩く。

また止まる。

A dog looking back at a traveler on a narrow Cappadocia path
He did not call. He simply waited.

それは命令ではなかった。

導きと呼ぶには、まだ早すぎた。

けれど、偶然と呼ぶには、もう遅すぎた。

バリシュは分岐の前に立った。

左へ行けば、元の道へ戻れる。

右へ行けば、犬のあとを追うことになる。

風が岩の間を抜けた。

乾いた音がした。

バリシュは右の道を見た。

細く、暗く、奥が見えない道だった。

犬はその入口で、逃げずに待っていた。

まるで、バリシュがまだ知らない自分の弱さまで、すでに知っているように。

A traveler standing at a rocky crossroads in Cappadocia while a dog disappears into a narrow passage
One path remained open. The other had already chosen him.
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