手を伸ばす前に、バリシュは自分の指が震えていることに気づいた。
犬は逃げなかった。
49話でそう感じた時から、地下の空気は変わっていた。
いや、変わったのは空気ではなく、自分の方だったのかもしれない。
デリンクユ地下都市の最も奥に近い空間は、狭いのに、どこか深く感じられた。
石の壁は冷たく、天井は低い。
古い煤の跡が壁に残り、足元の砂は人の気配を吸い込むように静かだった。
犬は、奥の壁の前にいた。
三本の短い傷が残る場所。
その下には、かすかなへこみがある。
バリシュはポケットの中の破片を握った。
ここまで来た。
それなのに、まだ何も分かっていない。
父がここに来たのか。
この印は何なのか。
この犬はなぜ逃げないのか。
答えはひとつもない。
けれど、答えがないまま進むことを、もう何度も選んでいた。
犬はバリシュを見ていた。
近すぎない。
遠すぎない。
まるで、バリシュが自分で決める距離を、静かに残しているようだった。
バリシュは一歩近づいた。
犬は動かなかった。
もう一歩。
石の床が小さく鳴った。
犬の耳がわずかに動いた。
だが、逃げない。
バリシュは息を止めた。
手を伸ばせば、届く距離だった。
その事実が、胸の奥を強く締めつけた。
触れたいのか。
確かめたいのか。
それとも、触れた瞬間に何かが変わってしまうことを恐れているのか。
分からなかった。
ただ、手は少しずつ上がっていた。
犬の毛並みは、地下の薄い光の中で暗く沈んで見えた。
けれど、首元のあたりだけ、呼吸に合わせて静かに揺れている。
生きている。
その当たり前のことが、なぜかバリシュの心を揺らした。
これは幻ではない。
記憶ではない。
意味だけの存在でもない。
目の前に、体温を持った命がいる。
バリシュの指先が、犬のすぐ手前で止まった。
あと少し。
その距離が、あまりにも遠かった。

父に触れようとしているような気がした。
父の沈黙に触れようとしているような気がした。
家族の中で、誰も言葉にできなかったものに、手を伸ばしているような気がした。
バリシュは喉の奥で息を詰めた。
怖いのは、犬ではない。
何度もそう思った。
怖いのは、この手が触れたあと、自分がもう戻れなくなることだった。
犬は逃げない。
吠えない。
近づきもしない。
ただ、待っている。
その待ち方が、バリシュには苦しかった。
誰かに命令されたなら、反発できた。
誰かに押されたなら、逃げられた。
でも、待たれると、選ぶしかない。
バリシュは、ゆっくり手を下ろしかけた。
まだ無理だ。
そう思った。
その時、犬がほんの少しだけ顔を下げた。
近づいたのではない。
身を預けたのでもない。
ただ、バリシュの手の高さに、自分の存在を合わせるような動きだった。
バリシュの胸の奥が、静かに崩れた。
それは許しではなかった。
慰めでもなかった。
ただ、拒まれていないという事実だった。

バリシュはもう一度、手を上げた。
指先が空気を押す。
地下の冷たさが皮膚に残る。
犬の毛に触れる直前で、彼は目を閉じそうになった。
でも、閉じなかった。
見なければならない。
自分が何を選ぶのかを。
指先が、犬の毛に触れた。
ほんの一瞬だった。
思っていたよりも、温かかった。

バリシュの体から、力が抜けた。
犬は動かなかった。
逃げなかった。
吠えなかった。
ただ、そのままそこにいた。
バリシュの指先に、短い毛の感触が残った。
ざらつきではない。
石の冷たさでもない。
柔らかく、静かな温度。
地下の中で、その温もりだけが現実のようだった。
バリシュはすぐに手を引いた。
長く触れる勇気はなかった。
けれど、もう触れてしまった。
その事実は消えない。
バリシュは小さく息を吐いた。
自分が息を止めていたことに、そこで初めて気づいた。
犬は目を細めるでもなく、尻尾を振るでもなく、ただ静かにこちらを見ていた。
普通の反応ではない。
でも、バリシュはそのことをもう怖いとは思わなかった。
分からないままでも、触れられるものがある。
そう思った。
その瞬間、父のことが胸に浮かんだ。
父も、分からないものに手を伸ばしたのだろうか。
何かを知っていたから進んだのではなく、分からないまま進んだのだろうか。
もしそうなら。
バリシュは、その先を考えるのをやめた。
まだ父を理解したわけではない。
許したわけでもない。
ただ、父の選択というものが、少しだけ人間のものに見えた。
犬がゆっくりと体を壁の方へ向けた。
三本の傷。
小さなへこみ。
石の扉のような壁。
バリシュはポケットから破片を取り出した。
手はまだ少し震えていた。
けれど、さっきとは違う震えだった。
恐怖だけではない。
何かを確かめようとする震え。
犬は壁の前に座った。
初めてだった。
これまで犬は立っていた。
待っていた。
距離を保っていた。
だが今は、そこに座っていた。
まるで、もう逃げる必要も、導く必要もないと言うように。
バリシュは破片を壁のへこみに近づけた。
完全には合わない。
でも、角のひとつが、へこみの端に静かに触れた。
かすかな音がした。
石と古い欠片が触れる、小さな音。

その瞬間、バリシュの中で何かがはっきりした。
この場所は、答えではない。
入口だ。
父の答えでもない。
ノアの答えでもない。
自分が、向き合うことを始めるための入口。
犬は動かなかった。
バリシュは破片を戻し、もう一度犬を見た。
まだ名前はない。
まだ意味も分からない。
まだ何も終わっていない。
けれど、もう“ただの気配”ではなかった。
バリシュは小さく言った。
「……怖くなかった」
誰に言ったのか分からなかった。
犬にか。
自分にか。
それとも、遠くにいる父にか。
地下の空気は答えなかった。
けれど、その沈黙は、さっきまでより少しだけ柔らかかった。
犬は立ち上がった。
そして、バリシュの横をすり抜けるように、静かに奥の空間へ向かった。
触れたばかりの温もりが、指先にまだ残っている。
バリシュは動けなかった。
犬は数歩進んで、立ち止まった。
振り返らない。
でも、バリシュには分かった。
今度は、待っているのではない。
試しているのでもない。
ただ、信じている。
バリシュが、ついてくることを。


