古い場所には、まだ決まっていない気持ちを引き受ける空気がある。
朝のアンカラは、同じ街の中でも場所によって年齢が違うように見える。
クズライの朝は、すでに人の足で目を覚ましている。けれどウルスへ近づくにつれて、街の時間は少しだけ遅くなる。石の壁、古い看板、商店の半分だけ開いたシャッター。新しい一日が始まっているのに、そこには昨日よりもっと古い何かが、まだ静かに残っていた。
バリシュは、坂を下りながらウルスの方へ歩いていた。
自分でも、なぜこちらへ来たのかをうまく説明できなかった。
クズライから家へ戻ることもできた。
別の道へそれることもできた。
それでも、駅へ向かうならこっちだ、という感覚だけがあった。
正確には、もう“駅へ行く”と決めていたわけではない。
ただ、駅のある方角から目をそらし続けることができなくなっていた。
だから、歩いた。
クズライのように人が押し流してくれる場所ではなく、
少し古く、少し静かで、考えが置いていかれにくい道の方へ。

ウルスの空気には、乾いた石と朝のパンの匂いが混じっていた。
どこかで焼かれるシミットの香ばしさ、まだ温まりきっていない金属の匂い、長く使われた木の扉が開く音。通りの向こうでは、店先の椅子を並べる男がひとり、何も急いでいない顔で動いている。
クズライでは、みんなが“今”へ向かっていた。
けれどウルスでは、人の動きの後ろに、もう少し長い時間が見える気がした。
この街は、ただ古いのではない。
古いものが、まだ役目を終えていない場所だった。
バリシュは、そう思った。
父のことを考えるとき、どうしても新しい場所より、こういう古い空気の中の方が近く感じられる。
地図、靴、母の沈黙。
それらは全部、過去の中に閉じ込められているのに、まだ完全には終わっていない。
ウルスの朝は、その感じによく似ていた。

通りの角を曲がると、小さな茶屋の前に湯気が見えた。
ガラスの曇った窓の内側で、チャイグラスが何本も並べられている。
店の外には、古びた木の椅子が二脚。片方に、老人が座っていた。
灰色の上着を着て、杖を膝に立て、まだ飲み始めたばかりのチャイを片手に持っている。
顔には深い皺があったが、疲れて見えるというより、長く風に当たってきた石のような静けさがあった。
バリシュはその前を通り過ぎようとして、少しだけ足を緩めた。
老人の視線が、こちらを見ていたからだった。
見張るような目ではない。
呼び止めるでもない。
ただ、「どこへ行くのか分からない人間は分かる」とでも言うような、静かな視線だった。

「駅の方か」
老人が言った。
その声は低く、乾いていた。
けれど冷たくはなかった。
バリシュは思わず立ち止まる。
「……まだ、分かりません」
そう答えてから、自分でも少しおかしくなった。
聞かれたのは方角であって、人生のことではない。
なのに、口から出たのはそっちの答えだった。
老人は、わずかに口元を緩めた。
「分からないのに、駅のある方へ来る人は多い」
バリシュは何も言えなかった。
茶屋の奥では、ガラスにスプーンが触れる小さな音がした。
通りの向こうを、荷車を押した男がゆっくり横切っていく。

ウルスの朝は静かだったが、止まってはいなかった。
ただ、急いでいないだけだった。
老人はチャイをひと口飲み、空の方を見た。
「若いころは、出発は大きいもんだと思ってた」
その言い方は、独り言に近かった。
バリシュに話しているようでもあり、自分の昔に向けているようでもあった。
「でも、違う。大きいのは出発じゃない。
その前に、戻らないと決めることだ」
その言葉が、胸の奥へまっすぐ落ちた。
バリシュは、思わず老人を見た。
「戻らないと決める……」
「そうだ」
老人は頷いた。
「駅は、そのあとに来る」
その瞬間、ウルスの空気が少しだけ変わった気がした。
何か新しいことを言われたわけではない。
でも、自分の中でまだ曖昧だったものに、別の形が与えられた感じがした。
クズライでは、進むか戻るかで止まっていた。
バス停でチャイを飲みながら、行く場所と行きたい場所の違いを考えていた。
でも今、ウルスのこの古い空気の中では、問いが少し変わっていた。
進むか戻るか、ではない。
もう戻らないのかどうか。
そこが先なのだと、初めて分かった。
「あなたは、駅へ行くんですか」
バリシュは静かに尋ねた。
老人は笑わなかった。
ただ、チャイグラスを見つめたまま言った。
「今日は行かん。もう何度も行った」
それがどういう意味なのか、すぐには分からなかった。
若いころのことかもしれない。
人生の比喩かもしれない。
あるいは、本当にただ駅へ行った回数の話なのかもしれなかった。
でも、その曖昧さが妙に残った。
「じゃあ、どうしてここに?」
老人は通りを見た。
人が少しずつ増え始めている。
店先のシャッターが上がる音がした。
「駅へ向かう人間は、ここを通ることがあるからだ」
その一言は、説明のようでいて説明ではなかった。
待っているのか。
見ているのか。
思い出しているのか。
何一つはっきりしない。
けれど、そういう人がウルスには似合っていた。
古いものがまだ役目を終えていない場所には、
自分の役目をはっきり言葉にしない人の方が自然だった。
バリシュは通りの先に目を向けた。
ここからさらに進めば、駅の方へ出る。
まだ引き返せる距離でもある。
家を出たときよりは、少しだけ軽かった。
でも、軽いから進めるわけでもない。
胸の奥にはまだ、何も掴めなかったらどうするのかという恐れが残っている。
父のことを追うことが、本当に何かへつながるのか。
ただ空白を広げるだけではないのか。
それは、まだ分からない。
「怖い顔をしてる」
老人が言った。
バリシュは苦笑した。
「そう見えますか」
「見える。だが、悪い顔ではない」
その言い方に、少しだけ救われる。
励まされたわけではない。
背中を押されたわけでもない。
でも、自分の迷いがただの弱さではないと認められた気がした。
風が、通りを横切った。
クズライの風とは違って、ウルスの風は古い石の匂いを運んできた。
押すというより、何かを思い出させる風だった。
バリシュは、その風の中でゆっくり息を吸った。
「……駅の方、まっすぐですか」
自分の口から出た言葉を聞いて、ようやく分かった。
まだ決意ではない。
でも、もうただ迷っているだけでもない。
老人は杖の先で通りの先を軽く示した。
「まっすぐだ。だが、まっすぐ行けるやつは少ない」
また曖昧なことを言う。
なのに、その曖昧さが不思議と腹立たしくなかった。
バリシュは小さく頷いた。
茶屋の前を離れ、通りの先へ歩き出す。
数歩進いてから、ふと振り返った。
老人はもうこちらを見ていなかった。
チャイのグラスを手に、通りの向こうを見ている。
まるで最初から、自分を待っていたわけではなく、
ただこの場所に座っている時間の中に、たまたま自分が通りかかっただけだと言うように。
その姿が、なぜか強く胸に残った。

ウルスの朝は、まだ完全には新しくなっていなかった。
昨日の匂い、もっと前の誰かの足音、言葉にならなかった時間。
そういうものを少しずつ混ぜたまま、一日が始まっていく。
バリシュは歩きながら思った。
駅へ向かっているのかどうかは、まだはっきりしない。
でも少なくとも、自分はもう家へ戻るためには歩いていなかった。
その違いは、昨日までよりずっと大きい。
通りの先から、遠くに金属のきしむ音が聞こえた。
本当に駅から聞こえてきた音なのか、別の店のシャッターなのかは分からない。
けれどその音は、今のバリシュには、ただの生活音より少しだけ意味のあるものに聞こえた。
彼は歩みを止めなかった。
まだ理由はない。
まだ確信もない。
それでも――
古い街の匂いの中で、人はときどき、自分がもう前にいることだけを先に知る。

