犬は、手を離しても動かなかった。
バリシュの指先には、まだ温もりが残っていた。
さっき触れた白い毛の感触が、皮膚の奥に薄く沈んでいる。石の冷たさとは違う。古い紙の乾きとも違う。靴底に残っていた土のざらつきとも違う。
それは、生きているものの温度だった。
デリンクユ地下都市の奥は、相変わらず静かだった。低い天井、狭い通路、削られた壁。遠くで観光客の声が聞こえるはずなのに、その声は何層もの石に吸い込まれ、ここまで届くころには意味を失っていた。
灯りは弱く、犬の白い毛を淡く照らしていた。
バリシュは、ゆっくり手を引いた。
犬は逃げなかった。

普通なら、少しは身を固くするはずだった。触れられたあと、人間の手から距離を取るはずだった。警戒して、鼻を動かすか、足をずらすか、せめて目をそらすはずだった。
けれど、この犬は何もしなかった。
ただ、バリシュを見ていた。
その静けさが、バリシュの中で別の不安になった。
怖がっていないのか。
それとも、怖がる必要がないのか。
地下の壁際に、小さな空間があった。部屋と呼ぶには狭く、通路と呼ぶには少しだけ広い。昔、何かを置くために削られた場所なのかもしれない。壁には浅いくぼみがあり、下の方には乾いた砂が薄くたまっている。
犬は、そのくぼみの近くに座っていた。
正確には、座ったというより、最初からそこに置かれていたように見えた。
バリシュは、犬の後ろの壁を見た。
三本の短い傷。
その下にある、細いくぼみ。
そして、その右側に、前には気づかなかった小さな線があった。

文字ではない。
少なくとも、はっきり読めるものではない。
けれど、バリシュはそれを見た瞬間、胸の奥がかすかに反応するのを感じた。
……afa。
そう読めるわけではない。
そこに文字があるわけでもない。
それでも、欠けた音だけが頭に浮かんだ。
一度覚えてしまった断片は、別の形を見ても戻ってくる。
バリシュは無意識にポケットへ手を伸ばしかけた。
破片はまだそこにある。
乾いた小さなもの。
父の痕跡かもしれないもの。
意味のない石かもしれないもの。
そのどちらでもあるようで、どちらでもないもの。
犬の視線が、ほんの少しだけ下がった。
バリシュのポケットのあたりを見たように思えた。
「……分かるのか」
言ってから、自分でその言葉に戸惑った。
犬に何が分かるというのか。
地図のことか。
破片のことか。
父のことか。
それとも、バリシュがまだ何も分かっていないということか。
犬は答えなかった。
ただ、動かなかった。
その沈黙は、昨日までの沈黙とは違っていた。
母エミネの沈黙は、何かを守る沈黙だった。
デニズの沈黙は、怒りを飲み込む沈黙だった。
父の沈黙は、もう戻ってこない人の沈黙だった。
けれど、この犬の沈黙は違う。
逃げるためでも、隠すためでも、拒むためでもない。
そこにいるための沈黙だった。
バリシュは、初めてその違いに気づいた。
今まで彼は、この犬を追っていた。
遠くに見えた影。
距離が変わらなかった存在。
振り返ればいた白い姿。
追えば消え、近づけば止まり、見ようとすれば分からなくなるもの。
けれど今、犬は目の前にいる。
そして動かない。
バリシュが追う対象ではなく、向こうにも意志がある存在として、そこにいた。
そのことが、奇妙に重かった。
「お前が、俺を連れてきたのか」
声は低く、石の壁に触れて消えた。
犬はまばたきをした。
ただそれだけだった。
それだけなのに、バリシュは返事をもらったような気がしてしまった。
すぐにその考えを打ち消す。
意味をつけすぎている。
父の地図を見つけてから、自分は何でもつながって見ているだけだ。風も、音も、犬も、壁の傷も、全部。
そう思おうとした。
けれど、その考えは長く続かなかった。
なぜなら、犬は偶然にしては、あまりにも正確な場所にいたからだ。
父の痕跡らしきものの近く。
三本の傷の前。
小さな線のそば。

そして、バリシュが触れたあとも、そこを離れない。
まるで、ここから目をそらすなと言っているようだった。
バリシュは壁に近づいた。
犬は動かない。
一歩。
また一歩。
靴の底が砂を押す音が、地下の小部屋に小さく響いた。
壁の近くにしゃがむと、石の冷たさが膝のあたりに伝わってきた。灯りが弱く、傷の輪郭は見えたり消えたりする。指で触れれば分かるかもしれない。
だが、バリシュはすぐには触れなかった。
さっき犬に触れたばかりだった。
今度は壁に触れることになる。
犬の温もりと、父の冷たい痕跡。
その二つを同じ手で触れることが、なぜかためらわれた。
「父さんは……ここに来たのか」
問いは犬に向けたものではなかった。
壁に向けたものでもなかった。
自分の中にある空白に向けていた。
答えはなかった。
それでも、答えがないことに、以前ほど苛立たなかった。
不思議だった。
犬がそこにいるだけで、答えのない空間に、少しだけ耐えられる気がした。
それは安心ではない。
救いと呼ぶにも早すぎる。
けれど、ひとりではないという感覚に少し似ていた。
バリシュはそっと壁に触れた。

石は冷たかった。
その冷たさが、さっきまで指に残っていた犬の温もりを、ゆっくり押し戻していく。
温かいものと冷たいもの。
今と過去。
生きているものと、残されたもの。
その二つの間に、自分の手があった。
バリシュは、ようやく分かった。
この犬は答えを持っているのではない。
答えの場所に、静かに座っているだけなのだ。
だからこそ、動かない。
導くのではない。
急かすのでもない。
ただ、バリシュが見落としそうになるもののそばにいる。
それが、この犬の不思議さだった。
しばらくして、犬がゆっくり顔を伏せた。
眠るわけではない。
警戒を解いたわけでもない。
ただ、待つ姿勢に戻ったように見えた。
バリシュは壁から手を離した。
指先には、冷たさが残っている。
犬に触れた温もりは、まだ完全には消えていない。
二つの感触が、同じ手の中で混ざっていた。
地下のどこかで、また足音がした。
今度は少し近い。
観光客かもしれない。
ガイドかもしれない。
それでも犬は振り返らなかった。
バリシュだけを見ていた。
まるで、外の音ではなく、バリシュが次に何を選ぶかだけを待っているようだった。

バリシュは立ち上がった。
まだ名前はない。
呼ぶこともできない。
犬、と呼ぶには近すぎる。
ノア、と呼ぶにはまだ遠すぎる。
白い影。
あの犬。
逃げない存在。
どれも正しく、どれも足りなかった。
バリシュは最後にもう一度、壁の傷を見た。
そして、そのそばに座る犬を見た。
犬は答えのそばにいた。
けれど、答えそのものではなかった。

