第53話 動かない|デリンクユ地下都市で逃げない白い犬

Barış facing Noah inside Derinkuyu Underground City in Cappadocia

犬は、手を離しても動かなかった。

バリシュの指先には、まだ温もりが残っていた。

さっき触れた白い毛の感触が、皮膚の奥に薄く沈んでいる。石の冷たさとは違う。古い紙の乾きとも違う。靴底に残っていた土のざらつきとも違う。

それは、生きているものの温度だった。

デリンクユ地下都市の奥は、相変わらず静かだった。低い天井、狭い通路、削られた壁。遠くで観光客の声が聞こえるはずなのに、その声は何層もの石に吸い込まれ、ここまで届くころには意味を失っていた。

灯りは弱く、犬の白い毛を淡く照らしていた。

バリシュは、ゆっくり手を引いた。

犬は逃げなかった。

Barış facing a still white dog inside Derinkuyu Underground City
The dog did not run. It simply stayed.

普通なら、少しは身を固くするはずだった。触れられたあと、人間の手から距離を取るはずだった。警戒して、鼻を動かすか、足をずらすか、せめて目をそらすはずだった。

けれど、この犬は何もしなかった。

ただ、バリシュを見ていた。

その静けさが、バリシュの中で別の不安になった。

怖がっていないのか。

それとも、怖がる必要がないのか。

地下の壁際に、小さな空間があった。部屋と呼ぶには狭く、通路と呼ぶには少しだけ広い。昔、何かを置くために削られた場所なのかもしれない。壁には浅いくぼみがあり、下の方には乾いた砂が薄くたまっている。

犬は、そのくぼみの近くに座っていた。

正確には、座ったというより、最初からそこに置かれていたように見えた。

バリシュは、犬の後ろの壁を見た。

三本の短い傷。

その下にある、細いくぼみ。

そして、その右側に、前には気づかなかった小さな線があった。

Noah beside ancient stone markings in Derinkuyu Underground City
Noah remained beside the marks, silently waiting.

文字ではない。

少なくとも、はっきり読めるものではない。

けれど、バリシュはそれを見た瞬間、胸の奥がかすかに反応するのを感じた。

……afa。

そう読めるわけではない。

そこに文字があるわけでもない。

それでも、欠けた音だけが頭に浮かんだ。

一度覚えてしまった断片は、別の形を見ても戻ってくる。

バリシュは無意識にポケットへ手を伸ばしかけた。

破片はまだそこにある。

乾いた小さなもの。

父の痕跡かもしれないもの。

意味のない石かもしれないもの。

そのどちらでもあるようで、どちらでもないもの。

犬の視線が、ほんの少しだけ下がった。

バリシュのポケットのあたりを見たように思えた。

「……分かるのか」

言ってから、自分でその言葉に戸惑った。

犬に何が分かるというのか。

地図のことか。

破片のことか。

父のことか。

それとも、バリシュがまだ何も分かっていないということか。

犬は答えなかった。

ただ、動かなかった。

その沈黙は、昨日までの沈黙とは違っていた。

母エミネの沈黙は、何かを守る沈黙だった。

デニズの沈黙は、怒りを飲み込む沈黙だった。

父の沈黙は、もう戻ってこない人の沈黙だった。

けれど、この犬の沈黙は違う。

逃げるためでも、隠すためでも、拒むためでもない。

そこにいるための沈黙だった。

バリシュは、初めてその違いに気づいた。

今まで彼は、この犬を追っていた。

遠くに見えた影。

距離が変わらなかった存在。

振り返ればいた白い姿。

追えば消え、近づけば止まり、見ようとすれば分からなくなるもの。

けれど今、犬は目の前にいる。

そして動かない。

バリシュが追う対象ではなく、向こうにも意志がある存在として、そこにいた。

そのことが、奇妙に重かった。

「お前が、俺を連れてきたのか」

声は低く、石の壁に触れて消えた。

犬はまばたきをした。

ただそれだけだった。

それだけなのに、バリシュは返事をもらったような気がしてしまった。

すぐにその考えを打ち消す。

意味をつけすぎている。

父の地図を見つけてから、自分は何でもつながって見ているだけだ。風も、音も、犬も、壁の傷も、全部。

そう思おうとした。

けれど、その考えは長く続かなかった。

なぜなら、犬は偶然にしては、あまりにも正確な場所にいたからだ。

父の痕跡らしきものの近く。

三本の傷の前。

小さな線のそば。

Barış examining faint marks on an ancient stone wall inside Derinkuyu Underground City
Three faint marks remained on the stone, but no answer came.

そして、バリシュが触れたあとも、そこを離れない。

まるで、ここから目をそらすなと言っているようだった。

バリシュは壁に近づいた。

犬は動かない。

一歩。

また一歩。

靴の底が砂を押す音が、地下の小部屋に小さく響いた。

壁の近くにしゃがむと、石の冷たさが膝のあたりに伝わってきた。灯りが弱く、傷の輪郭は見えたり消えたりする。指で触れれば分かるかもしれない。

だが、バリシュはすぐには触れなかった。

さっき犬に触れたばかりだった。

今度は壁に触れることになる。

犬の温もりと、父の冷たい痕跡。

その二つを同じ手で触れることが、なぜかためらわれた。

「父さんは……ここに来たのか」

問いは犬に向けたものではなかった。

壁に向けたものでもなかった。

自分の中にある空白に向けていた。

答えはなかった。

それでも、答えがないことに、以前ほど苛立たなかった。

不思議だった。

犬がそこにいるだけで、答えのない空間に、少しだけ耐えられる気がした。

それは安心ではない。

救いと呼ぶにも早すぎる。

けれど、ひとりではないという感覚に少し似ていた。

バリシュはそっと壁に触れた。

Barış touching an ancient stone wall as Noah watches in Derinkuyu Underground City
His hand touched the cold stone while Noah waited in silence.

石は冷たかった。

その冷たさが、さっきまで指に残っていた犬の温もりを、ゆっくり押し戻していく。

温かいものと冷たいもの。

今と過去。

生きているものと、残されたもの。

その二つの間に、自分の手があった。

バリシュは、ようやく分かった。

この犬は答えを持っているのではない。

答えの場所に、静かに座っているだけなのだ。

だからこそ、動かない。

導くのではない。

急かすのでもない。

ただ、バリシュが見落としそうになるもののそばにいる。

それが、この犬の不思議さだった。

しばらくして、犬がゆっくり顔を伏せた。

眠るわけではない。

警戒を解いたわけでもない。

ただ、待つ姿勢に戻ったように見えた。

バリシュは壁から手を離した。

指先には、冷たさが残っている。

犬に触れた温もりは、まだ完全には消えていない。

二つの感触が、同じ手の中で混ざっていた。

地下のどこかで、また足音がした。

今度は少し近い。

観光客かもしれない。

ガイドかもしれない。

それでも犬は振り返らなかった。

バリシュだけを見ていた。

まるで、外の音ではなく、バリシュが次に何を選ぶかだけを待っているようだった。

Noah sitting by an ancient stone wall as Barış stands in the distance inside Derinkuyu Underground City
Noah remained beside the wall. Barış watched from the silence.

バリシュは立ち上がった。

まだ名前はない。

呼ぶこともできない。

犬、と呼ぶには近すぎる。

ノア、と呼ぶにはまだ遠すぎる。

白い影。

あの犬。

逃げない存在。

どれも正しく、どれも足りなかった。

バリシュは最後にもう一度、壁の傷を見た。

そして、そのそばに座る犬を見た。

犬は答えのそばにいた。

けれど、答えそのものではなかった。

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