第23話 ギョレメの細い石の路地|誰もいないはずの足音!

Barış walking through a quiet alley in Cappadocia at sunset

観光客が出入りしていたその穴に、気づけば自分も足を向けていた。
ただの洞窟のはずだった。

けれど——

父の地図にあった印が、ふと頭をよぎった。
その瞬間、その暗がりは少しだけ違う意味を持ちはじめた。

Barış standing beside a dark cave entrance in Göreme
Some paths seem ordinary until they begin to look back.

——あの時のことが、まだ体のどこかに残っている。

足音は、聞こえた瞬間より、消えたあとに重くなる。
バリシュは、洞窟住居の入口から離れたあとも、しばらく振り返ることができなかった。
奥から聞こえた、あの乾いた音。
石を踏むような、一歩。
そして、もう一歩。

誰かがいたのか。
それとも、岩の中で風が鳴っただけなのか。

そう考えようとしても、耳の奥にはまだ音の形だけが残っていた。

ギョレメの細い路地に戻ると、朝の光は少し強くなっていた。
白い壁に反射した光が目に入り、石畳の隙間には乾いた土が薄く積もっている。
遠くの表通りからは観光客の声が聞こえた。
笑い声、カメラのシャッター音、チャイグラスが皿に触れる音。

けれど、一本奥へ入ると、その音は急に薄くなった。
道は狭かった。
両側には岩を削った壁と、古い石の家が続いている。
窓の小さな鉄格子には、乾いた草が引っかかっていた。
低い扉の前には、誰かが置いたままの古い椅子が一脚ある。
人が暮らしている気配はある。
でも、今そこに人はいない。
その空白が、バリシュには落ち着かなかった。

Old wooden chair beside a stone house in a quiet Göreme alley
Someone had been here. The silence remained.

ポケットの中には、父の地図が入っている。
紙の角が指に当たるたび、ここへ来た理由を思い出す。

いや、本当は理由などまだない。

あるのは、理由になりきれない断片だけだった。
父の印。
洞窟の入口。
奥から聞こえた足音。
そして、昨日から何度も感じている、見えない気配。

それらは答えではない。
でも、無関係とも思えなかった。

バリシュは、路地の途中で足を止めた。
後ろで、音がした。
乾いた石を踏む、小さな音。

振り返る。

誰もいない。
路地の奥には、朝の光が斜めに差し込んでいるだけだった。
低い壁の影。
曲がり角の先に揺れる薄い布。
それ以外には何もない。

バリシュはゆっくり息を吸った。

気のせいだ。

そう言おうとした。
けれど、口の中でその言葉は弱かった。

昨日までなら、それで済んだかもしれない。
アンカラなら、風のせいにできた。
家の中なら、古い木がきしんだのだと思えた。
でもここでは、音がはっきりしすぎていた。

もう一度、歩き出す。
一歩。
そのすぐあとに、後ろでも一歩。

バリシュは止まった。
後ろの音も止まった。
背中に冷たいものが走る。

恐怖というほど大きくはない。
でも、身体が先に知ってしまったような感覚だった。

何かがいる。

Barış standing in a quiet Göreme alley near faint paw prints
Some footprints appear before their owner arrives.

そう思った瞬間、バリシュは自分の考えを打ち消した。

違う。

まだ何も見ていない。
影を見たわけでもない。
犬がいたわけでもない。
ただ音がしただけだ。
けれど、その“ただ”が、もう軽くなかった。

路地の奥から、一人の年配の女性が出てきた。
手には小さな買い物袋を持ち、頭には薄いスカーフを巻いている。
バリシュを見ると、少しだけ目を細めた。

「道に迷ったの?」

柔らかい声だった。

An elderly woman speaking with Barış in a quiet Göreme alley
Sometimes a stranger leaves behind the words you cannot forget.

「いえ……少し歩いていただけです」

女性はうなずき、バリシュの背後をちらりと見た。
その視線が、ほんの一瞬だけ何かを確かめるように見えた。

「このあたりは、音がよく戻ってくるのよ」

「戻ってくる?」

「岩が多いから。足音も、声も。誰もいないと思っても、少し遅れて聞こえることがある」

それは現実的な説明だった。
バリシュは少し安心した。
安心したはずだった。

けれど女性は、そのあとに小さく付け加えた。

「でも、全部が反響とは限らないけどね」

言ってから、彼女は何事もなかったように坂を下っていった。
バリシュは、その背中を見送った。

全部が反響とは限らない。

その言葉だけが、路地の中に残った。

風が吹いた。
岩の壁に沿って、細く、低く。
埃が少しだけ舞い上がり、光の中で小さく揺れた。

バリシュは、もう一度後ろを見た。
誰もいない。

それでも、何かに見られている気がした。
まだ視線ではない。
はっきりした目ではない。
ただ、空気のどこかに、自分の存在を知っているものがいるような感覚。

アンカラで感じた風とは違う。
ここでは、その気配がもっと低い。
地面に近い。
足元から、静かについてくるようだった。

バリシュは、路地の曲がり角まで歩いた。
角を曲がれば、少し開けた道に出る。
人の声も戻る。
土産物屋の色も見える。
普通のギョレメに戻れる。
そう分かっているのに、足はそこで止まった。

曲がり角の手前、壁の下に、小さな跡があった。
犬の足跡のようにも見えた。
けれど、乾いた土の上に半分だけ残っていて、はっきりしない。

バリシュはしゃがみ込んだ。
指で触れようとして、やめた。
触れたら消えてしまいそうだった。

Barış examining faint tracks in a quiet Göreme alley
A mark in the dust is sometimes enough to change a journey.

その跡は、路地の奥から来たようにも、奥へ向かったようにも見えた。
どちらなのか分からない。
ただ、その向きが、自分の歩いてきた方向と重なっている気がした。

また、音がした。
今度は前からだった。
バリシュは顔を上げた。
曲がり角の向こう。
光の届くぎりぎりの場所。

そこに、何かがいた気がした。
黒でも茶色でもない、低い影。
ほんの一瞬だけ、壁の端に沿って動いた。

「……」

声は出なかった。
バリシュが立ち上がった時には、もう何もなかった。

ただ、細い道の向こうから、誰かがこちらを見ていたような余韻だけが残っていた。

追うべきか。

そう思った。
でも、足は動かなかった。

追えば、何かが分かるかもしれない。
けれど、分かってしまうことが怖かった。

ギョレメの朝は、すぐそばで普通に続いていた。
パンの匂い。
観光客の声。
チャイを運ぶ盆の音。
誰かの笑い声。

その普通さの隣で、自分だけが別の道に足を踏み入れている気がした。

バリシュはゆっくり立ち上がった。
足跡はまだそこにある。
けれど、光が少しずつ強くなれば、すぐに消えてしまうだろう。
消える前に、何を見たのか覚えておかなければならない。

そう思った瞬間、背後でまた足音がした。
一歩。

バリシュは振り返らなかった。
振り返れば、また何もないかもしれない。
そして、何もなかった時に、自分はこの違和感を信じられなくなる。

だから、彼は前を見たまま立っていた。

すると、今度は足音ではなく、もっと静かなものが近づいてきた。
視線。
まだ見えていないのに、見られていると分かるような、低くて静かな視線。

バリシュは、曲がり角の先を見つめた。
そこには誰もいない。

けれど、誰もいないはずの場所から、確かに何かがこちらを見ていた。

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