第24話 ギョレメの岩の小道|誰もいない場所からの視線

Barış standing on a rocky path above Göreme, looking toward the valley and cave dwellings

路地を抜けて、岩の間の細い小道に入った時だった。
視線は、音よりも静かだった。

足音なら、まだ理由を探せる。
風。反響。石のずれ。
そういう言葉で、自分を納得させることができる。
けれど、視線は違った。

バリシュは、ギョレメの岩の間を通る小道に立っていた。
表通りから少し外れただけなのに、町の音は急に遠くなる。
観光客の声も、車の音も、チャイグラスの触れ合う音も、岩に吸い込まれて薄くなっていた。

道の両側には、削られた岩肌が続いている。
白とも灰色とも言えない壁。
そこに小さな穴や、古い窓のような跡が残っていた。
風が通るたび、乾いた草が岩の根元で小さく揺れる。

Narrow rocky path between carved stone walls in Göreme, Cappadocia
A quiet path where the wind seems to pause.

バリシュは、何度か振り返った。
誰もいない。
それでも、背中のあたりに、低く静かな気配が残っていた。

昨日の洞窟。
今朝の路地。
消えた足音。
半分だけ残っていた足跡。
どれも、はっきりとは掴めない。
けれど、それらはもう別々の出来事ではなかった。
何かが、自分の周りをゆっくり回っている。

そう思った瞬間、バリシュは自分の考えを嫌った。
まるで子どもの頃に戻ったようだった。
暗い部屋で、何もない天井を見つめながら、見えないものを怖がっていた頃。

父がいなくなってから、家の中には何度もそういう夜があった。
母は何も言わなかった。
デニズはまだ幼く、眠っているだけだった。
家は静かで、時計の音だけが不自然に大きく聞こえた。

あの頃も、バリシュはよく思っていた。
誰かが、どこかでこちらを見ている。
それが父なのか、記憶なのか、自分の弱さなのかは分からなかった。

岩の小道の先で、光が細く揺れた。

バリシュは足を止めた。

右側の岩壁に、浅いくぼみがあった。
人が座れるほどの小さな影。
その奥は暗く、何かが隠れていても不思議ではない。

Shadowed cave interior carved into rock in Göreme, Cappadocia
A silence that feels deeper than the stone around it.

バリシュは目を凝らした。

何もいない。
そう思った。

けれど、次の瞬間、その暗がりの中だけが、ほんの少し濃くなったように見えた。
動いたのではない。
鳴いたのでもない。
ただ、そこに“気づかれた”ような感覚があった。

バリシュは喉の奥に力を入れた。

「……誰かいるのか」

声は小さかった。
岩に当たって、すぐに戻ってくる。

返事はない。
けれど、沈黙の戻り方が、さっきまでと違っていた。
まるで、自分の声を聞いた誰かが、息を止めたようだった。

その時、小道の上の方から少年が一人、走って下りてきた。
手には小さなパンを持ち、息を切らしながらバリシュの横を通り過ぎようとした。

Young boy meeting Barış on a rocky path in Göreme, Cappadocia
A brief encounter beneath the stone cliffs of Göreme.

バリシュは思わず声をかけた。

「この先に、何かいる?」

少年は足を止めた。
不思議そうにバリシュを見て、それから岩のくぼみの方を見た。

「何かって?」

「犬とか」

少年は少し考えてから、肩をすくめた。

「犬はどこにでもいるよ」

それは普通の答えだった。
バリシュはうなずいた。
自分でも、変なことを聞いたと思った。

少年はパンを片手に持ち直し、少し笑った。

「でも、あそこにいる犬は近づかない方がいいって、うちのおじいちゃんが言ってた」

バリシュの胸の奥で、何かが静かに止まった。

「あそこ?」

少年は小道の先、岩と岩の間にある細い坂を指した。

「見えないけど、いる時があるって」

「見えない?」

「うん。見える時もある。でも、見ようとするといない」

少年はそれ以上深く考えていないようだった。
ただ大人から聞いた言葉を、そのまま口にしただけの顔をしていた。

「名前は?」

「知らない」

少年はそう言って、今度こそ坂を下りていった。
バリシュは、彼の背中が表通りの光の中へ消えていくのを見ていた。

見える時もある。
でも、見ようとするといない。
その言葉は、昨日からの出来事に不自然なほど合っていた。

バリシュは、少年が指した方へ目を向けた。
岩と岩の間に、細い小道が続いている。
そこは光が届きにくく、昼近い時間なのに、奥の方だけが少し冷たく見えた。

行くべきではない。
そう思った。
けれど、足は一歩だけ前に出ていた。

この数日、自分は何度も同じことをしている。
行く理由はない。
それでも、止まる理由の方が弱くなっていく。

父の地図。
洞窟の入口。
足音。
足跡。
そして、今の少年の言葉。

全部が一本の線になっているわけではない。
でも、その線は少しずつ、自分の前に置かれている気がした。

バリシュは小道の奥へ進んだ。
風が弱くなった。
土の匂いが濃くなる。
岩の影の中では、足音が小さく響いた。

自分の足音。
それだけのはずだった。

けれど、数歩進んだところで、バリシュはまた止まった。
見られている。
今度は、はっきりそう思った。
背後ではない。
前でもない。
横でもない。
視線は、場所ではなく、空気の中にあった。
まるで、岩そのものがこちらを見ているようだった。

バリシュはゆっくり顔を上げた。
小道の先に、開けた場所が少しだけ見えた。
その向こうに、谷のような低い景色が広がっている。
まだ遠い。
けれど、そこから風が流れ込んでいた。

その風の中に、短い音が混ざった。
吠え声ではない。
鳴き声でもない。
喉の奥で小さく息を吐いたような音。

バリシュの体が止まった。

岩の影の端に、何かがいた。
今度は、影ではなかった。
形というほど確かではない。
けれど、低い位置に、じっと動かない何かがある。

黒とも茶色とも言えない色。
土と岩の色に近い。
だから、見ようとするとすぐ景色に溶ける。

バリシュは瞬きをした。
次の瞬間、それはもうなかった。
ただ、岩の下に、細い草が揺れていた。

バリシュはしばらく動けなかった。
見間違いかもしれない。
疲れているだけかもしれない。
光の加減だったのかもしれない。

でも、ひとつだけ違った。
さっきまで自分を見ていたものは、確かにこちらの存在を知っていた。
そして、自分が気づいたことにも気づいていた。

その感覚だけは、消えなかった。

バリシュは小道の先を見つめた。
そこには、何もいない。
何もいないはずだった。

けれど、誰もいない岩の間から、もう一度だけ、低く静かな視線が戻ってきた。

今度は、逃げるようなものではなかった。
待っているようだった。

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