足は、前に出なかった。
バリシュはゼルベの狭い通路の入口に立っていた。背後には谷の出口の光があり、前には岩に挟まれた細い道が続いている。
犬はその先にいた。
近い。
今まででいちばん近いはずだった。
それなのに、バリシュは近づけなかった。
風は通路の中で細くなり、耳元をかすめるように抜けていった。岩壁に手を触れると、冷たさとざらつきが指先に残った。どこか湿った石の匂いがした。

外の明るさはまだ見える。
戻れる。
そう思った。
でも、それがかえって苦しかった。
戻れるのに、戻らない。
進めるのに、進めない。
その中途半端な場所に、自分だけが取り残されているようだった。
犬は振り返らなかった。
ただ、通路の先で静かに立っていた。
逃げない。
呼ばない。
急かさない。
待っている。
その姿が、バリシュの胸を重くした。
誰かに強く命令されたなら、拒むことができた。
誰かに無理やり引っ張られたなら、怒ることができた。
でも、犬は何もしない。
何もしないからこそ、すべてが自分に返ってくる。
進むのか。
戻るのか。
見なかったことにするのか。
バリシュは唇を結んだ。
同じ犬だ。
それはもう分かっていた。
けれど、分かったからといって、近づけるわけではなかった。
近づけば、何かが変わる。
いや、もう変わっている。
ただ、その変化を認めるのが怖かった。
父のこともそうだったのかもしれない。
本当はずっと、知りたかった。
でも、知ることが怖かった。
父がなぜ消えたのか。
母がなぜ語らなかったのか。
デニズがなぜ怒り続けていたのか。
知れば、誰かを責められなくなるかもしれない。
知れば、自分も何かを選ばなければならなくなるかもしれない。
バリシュは小さく息を吸った。
通路の奥で、犬の耳がわずかに動いた。
それだけだった。
なのに、バリシュは見られている気がした。
顔ではない。
足元でもない。
自分の中の、まだ名前をつけていない場所を。
「俺は……」
言葉は続かなかった。
犬は答えない。
沈黙だけが、岩の間に残った。
バリシュは一歩出そうとした。
足の裏が石を押す。
けれど、膝が動かなかった。
体が拒んでいた。
理性ではなく、もっと古い場所が止めていた。
行くな。
まだ早い。
知るな。
戻れ。
そんな声が、胸の奥で重なっていた。
その時、背後から人の足音が近づいてきた。
観光客の男性が、カメラを首から下げて通路の入口まで来た。バリシュの横を軽く会釈して通り過ぎる。
男は犬の横を普通に抜けていった。
何も起きなかった。

犬も動かない。
男も気にしない。
その普通さが、バリシュには異常に見えた。
なぜ自分だけが止まっているのか。
なぜ自分だけが、この犬の前で動けなくなるのか。
犬が特別なのか。
それとも、自分の中に、動けなくなる理由があるのか。
男の足音はすぐ遠ざかった。
通路にはまた、バリシュと犬だけが残った。
バリシュはようやく理解した。
近づけないのは、犬が怖いからではない。
犬の先にあるものが怖いのだ。
そして、それはたぶん父のことだけではない。
自分がどんな人間なのか。
何から逃げてきたのか。
何を信じたいのか。
そこまで見えてしまう気がした。
犬はゆっくり振り返った。
目が合った。
今度の目は、前より遠く見えた。
距離は近いのに、遠かった。
その矛盾が、バリシュの胸を締めつけた。

「近づけない」
小さく言った。
自分に言ったのか、犬に言ったのか分からなかった。
犬は動かなかった。
ただ、その場にいた。
その静けさは、責めるものではなかった。
でも、逃がしてくれるものでもなかった。
バリシュは、初めて自分が選択の前に立っていることをはっきり感じた。
進むことも選択。
戻ることも選択。
立ち尽くすことさえ、選択だった。
父は、どこかで同じように立ち止まったのだろうか。
そして、何を選んだのだろうか。
通路の奥から、風が戻ってきた。
その風に乗って、かすかな音が聞こえた。
犬の足音ではない。
人の声でもない。
まるで、ずっと前に閉じ込められた言葉が、石の奥からこぼれたような音だった。
バリシュは顔を上げた。
犬も同じ方向を見た。
その瞬間、バリシュの背中に冷たいものが走った。
犬は何かを聞いている。
自分と同じものを。
いや、自分より先に。
バリシュは息を止めた。
狭い通路の先に、もう一つ暗い穴が見えた。

その奥から、何かがこちらを見ているような気がした。
犬は一歩だけ、その暗い方へ進んだ。
今度は、待たなかった。
バリシュは動けなかった。
追わなければ見失う。
でも、足はまだ石の上に貼りついたままだった。
犬の姿が岩の影に半分隠れる。
そして最後に、犬は振り返った。

その目を見た瞬間、バリシュの胸に、言葉にならない問いが落ちた。
あの犬は、いったい何なのだろう。

